2013年11月17日主日礼拝報告

いそがなくちゃ、いそがなくちゃ

いそがなくちゃ、いそがなくちゃ

画像は11月17日の主日礼拝の子供礼拝メッセージで、メンバーのOさんが使われたペープサート(って言うのかなぁ。いえ、フランネルグラフと言うらしい)です。聖書箇所はルカによる福音書1章57~66節、「いそがなくちゃ、いそがなくちゃ」というタイトルでお話しくださいました。誕生するイエスに会うために急ぐ、動物や人のお話でした。もうすぐ12月です。師走とも言いますね。「師走や。牧師も走らなあかん」という、ある教会で同僚だった先輩牧師の言葉を思い出します。

礼拝の中で新約聖書・使徒言行録15章22~29節を読みました。牧師からは「手紙」というタイトルでお話をしました。

「老い」と呼ばれるものは家族に危機を招くことがあります。例えば、「認知症」の症状はケアする家族を苦しめることがあります。家族のことが分からなくなったり、モノをを無くしたり、徘徊したり、そんなことが家族を苦しめ、家族をバラバラにしかねません。

『家族という意志』という本の中で芹沢俊介さん(評論家)は、老いをふたつのレベルの中で考えています。ひとつは「する」というレベル、そして「ある」というレベルです。老いによって人は「する」(できる)というレベルから「ある」というレベルに移行していきますが、その途中で家族は混乱して家族に危機が訪れます。そして、例えば認知症の前では血縁や家族としての過去の記憶は家族を成り立たせるためには力を持たないと言います。でも、芹沢さんによれば、「ある」レベルに近づく一歩手前であっても、人は相手との新たな関係を求めて生きようとする存在なのだそうです。自分の子供が分からなくても新たな「子供」を見つけたり、連れ合いが分からなくなっても別の誰かを「連れ合い」としたりするのです。誰かと家族であろうとする微かな意志を持ち続けるのです。その微かな意志に応えようとする意志だけが、家族を保つ、あるいは新たな家族を構築するのだと芹沢さんは書いているんだと僕は思いました。

「神の家族」と呼ばれる教会は、その初期の時代にある危機を迎えます。ユダヤ教の伝統の中で生まれた教会の中で、ユダヤ教の掟にしたがってキリスト教徒も全員「割礼」を受けるべきだという考えを持つ人々と、外国人にそれを課すべきでないと考える人々がぶつかり合ったのです。そんな時教会は、外国人のキリスト教徒には「割礼」を強いないという決断をします。そしてそのことを手紙に認めて外国の教会に宛てたのです。教会という「家族」を維持するために、「割礼」という習慣を押し付けるのでもなく、「神の《家族》」なんだからというなぁなぁでもなく、「《神の》家族」なんだからというお仕着せでもない、互いに「神の家族」として生きて行こうっていう意志に基づいて決断したんです。

主イエスは、自分の母親と兄弟が訪ねて来た時に、そのことを知らせる人に「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えて、イエスの周りに座っていた人たちを見まわしてこう言いました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ三章三一~三五節)。教会という神の家族を形作るのは、血筋でもないし、律法・掟でもない。教会は、神の意志と神に従おうとする老いと若きと男と女、一人一人の意志に基づいた「神の家族」です。

礼拝後は、クリスマスに備えて讃美歌練習、その後は会堂のお掃除、そして定例の役員会を行いました。皆様、お疲れ様でした。

次週の主日礼拝は11月24日(日)午前10:30~11:45です。収穫感謝日・謝恩日の主日礼拝です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記15章17~35節です。牧師のお話のタイトルは「悪人の末路」。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は、クリスマス・イブのキャンドル・サービス(礼拝)に備えて有志の方が讃美歌練習をします。その後は、いよいよアドベント(待降節)に備えてクリスマスの準備です。

報告:山田有信(牧師)

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