2013年11月3日主日礼拝報告

Mさんが献げてくださったお花

Mさんが献げてくださったお花

教会の暦の上では「聖徒の日」でした。この日に教会に関係する永眠者を記念する営みを行う教会が多く、大阪淡路教会も例年はそうなのですが、今年は次週に行います。

11月3日の主日礼拝の子供礼拝メッセージは、メンバーのOさんが担当してくださいました。聖書箇所はマルコによる福音書15章33~41節、「大きいいのち、小さいいのち…」というタイトルでのお話でした。「いのち」に大きい/小さいということがあるのか、あるいはすべての「いのち」が同じと言えるのか、という問いかけでした。考えさせられます。

礼拝の中で使徒言行録15章1~5節を読みました。牧師からは「古いしきたり」というタイトルでお話をしました。でもまたまたタイトルとはなかなか結びつかない内容になってしまったと思います。準備しているうちにどうしても最初の構想からはずれて行くんですよね…。

家族というものには常に危機的状況がつきまといます。結婚、出産、子育て、教育、退職、介護などなど、家族にはいろいろな場面があって、その場面を迎えるたびに、家族をバラバラにするような、家族でいることを苦しくさせるような様々な出来事が起こります。でも多くの人は家族を求めます。家族を維持しようとします。どうして人は家族であろうとするんでしょうか。

芹沢俊介さんという評論家の著書『家族という意志』によると、家族をつくるのは人間だけだそうです。動物は長期間続く家族というユニットはつくらないんです。そして、家族を成立させるのは、血統でも家でも制度でもなくて、家族でありたいと願う意志なのだそうです。じゃあ、人はどうやって、自分とは異なる相手とを受け入れて家族であろうとするんでしょうか。『家族という意志』の中で特に印象深かったのは、母親が生まれた子供を全面的・無条件に受け入れようとする営みを記した箇所でした。その営みは子供が生きて行くために欠くことのできないものですが、決して母親の本能のような予め備わっているものではなくて、人の意志なのだと芹沢さんは言います。

教会はしばしば「神の家族」と言われます。ところが、上記の聖書箇所では、ユダヤ教徒が大切にしてきた「割礼」という儀礼を外国人キリスト教徒にも課すべきだと主張することによって、その教会が分裂の危機を迎えます。そのため当時の教会はエルサレムで会議を開いて、この件について議論し、外国人キリスト教徒には「割礼」を義務づけないという決定を下します。神との契約のしるしである「割礼」を犠牲にしてまでも、「神の家族」を家族として保つ決断をしたんだと思います。なぜ、そんな決断ができたんでしょう。それは、エルサレムの教会にいた、生前のイエスと活動を共にした弟子たちが、見捨てたイエスに裁かれるのではなくて、受け入れられた経験をしていたからだと思います。それは十字架で死んだはずのイエスが自分の目の前に姿を現わしたという弟子たち自身の経験です。

母親(あるいはその代理)が自分の意志で赤ちゃんを、全面的・無条件に受け止めようとするように、イエスは、人と出会い、人を懸命に受け入れようとした存在です。僕自身にとってもそうです。そして、それが教会が「神の家族」として、常に人を受け入れ、常に新しい教会となろうとする強い意志の基です。

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バザー準備

礼拝後には、翌日のバザーの準備をしました。

次週の主日礼拝は11月10日(日)午前10:30~11:45です。永眠者記念主日礼拝です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記15章11~16節です。牧師のお話のタイトルは「人はみな罪人なのか」。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は、教会墓地(服部緑地霊園)に移動して墓前礼拝を行います。例年は墓前礼拝後に、霊園の広場で持ち寄ったものを一緒にいただくのですが、日曜日の天候はどうでしょうか。雨の場合は教会に戻って食事をすることになります。

 

報告:山田有信(牧師)

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