アドベント(待降節)第1主日礼拝でした。画像は一本目のロウソクに火を灯したアドベント・クランツです。あと3度の主日礼拝を経て、4本のロウソクに火が灯って、クリスマス(25日)を迎えます。子供礼拝メッセージをメンバーのIさんが担当してくださいました。聖書箇所は新約聖書・ローマの信徒への手紙1章2から5節、「イエス様と十字架」というタイトルでお話しくださいました。
礼拝の中で新約聖書・使徒言行録15章36~41節を読みました。牧師からは「衝突!別々の道」というタイトルでお話をしました。
聖書の物語は、これまで活動を共にしてきた使徒パウロとバルナバが衝突して別離するという出来事を語ったものです。衝突の原因は「マルコと呼ばれるヨハネ」であったとされます。バルナバはマルコを同行させたいと思ったのですが、パウロは嫌がりました。前回の宣教旅行中に一行から離れてエルサレムに行ってしまったからです。でも、本当にそれだけなのでしょうか。
このマルコが『マルコによる福音書』の著者だと言う説があります。その通りだとすると、マルコが一行から離れたのには理由がありそうです。パウロとは考え方が大きく異なっていたのではないでしょうか。マルコは何よりも生前のイエスの活動を大切にし、イエスと弟子たち・女性たち・民衆との関係を福音書に記しました。一方パウロは、イエスの十字架と復活の出来事の理解に重点を置いていますから、この点でマルコとパウロとは衝突せざるを得なかったのではないでしょうか。
こうして、以降のキリスト教会には大きく二つの流れができることになります。キリストの十字架と復活の出来事を重んじるパウロたちの流れと、イエスと弟子たち・女性たち・民衆の活動に重点を置くマルコたちの流れです。そして、主流となっていたのは前者でした。ともすると、教会はイエスの生き様よりも十字架と復活の出来事ばかりを強調する嫌いがありますが、この影響ではないでしょうか。でも、いったいどちらが正しいのでしょうか。もしパウロの流れがなかったら、教会はユダヤ教に逆戻りして、世界中に拡がることは無かったかも知れません。もしイエスの生き様を語る福音書が無かったら、イエスの生き様に遡ってわたしたち自身一人一人の信仰を新しくすることはできません。
いずれにしても、パウロとバルナバ(とマルコ)の衝突の持つ意味は大きなものです。この衝突がなかったら、パウロはギリシャ・ローマ世界にまでキリストの福音を宣べ伝えることは無かったかもしれません。この衝突がなかったら、マルコは福音書を記すことは無かったかも知れません。そしてこの衝突が聖書の中に明らかにされているからこそ、わたしたちはパウロとマルコのどちらに真理があるのかという疑問を持つことができるのではないでしょうか(衝突を誤魔化してしまうことも可能だったはず)。衝突はわたしたちの力を削ぐものでもあります。時には生命を危険にさらすことさえあります。でも衝突は新しいものを生み出すエネルギーを生み出すものでもあります。だからわたしたちは衝突そのものを恐れたり、衝突を隠したりする必要はありません。
次週の主日礼拝は12月8日(日)午前10:30~11:45です。アドベント(待降節)第2主日礼拝です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記16章1~6節です。牧師のお話のタイトルは「もし、わたしがあなただったら」。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)