2013年12月8日主日礼拝報告

ショウウィンドウに飾られたキリストの降誕場面

ショウウィンドウに飾られたキリストの降誕場面

アドベント(待降節)第2主日礼拝でした。画像は教会前のショウ・ウィンドウです。メンバーのOさんが飾ってくださいました。あと2度の主日礼拝を経て、クリスマスの日(25日)を迎えます。子供礼拝メッセージは牧師が担当しました。聖書箇所は旧約聖書・創世記11章1から9節、「バベルの塔」の物語についてお話ししました。物語では、バベルの塔を造る前には、人間はひとつの言語を話していました。ところが神はそれをよく思わないで、言葉をバラバラにして、人を世界に散らします。言葉が通じると、何となくお互いに分かり合っているような気がしてしまうことがあります。そうなると互いに分かり合おうとしなくなって、みんなが同じだって思い始めるのかも知れません(塔は人を画一化して支配するための象徴では)。でも神はそれを良しとはしなかったという物語ではないでしょうか。

礼拝の中で旧約聖書・ヨブ記16章1~6節を読みました。牧師からは「もし、わたしがあなただったら」というタイトルでお話をしました。

キューブラー・ロスという精神科医は、「死の受容のプロセス」と呼ばれるものを明らかにしたことで有名です。それは、人が死に向かうときに「否認・怒り・取引・抑うつ・受容」というプロセスをたどるというものです。ロスのこの研究は、何千人もの、死に向かう患者との対話から生まれ、やがてホスピス・ケアという医療への道を拓くものでした。けれども、ロスの晩年は、ロスの研究から人がイメージする人の死の受容とはかけ離れたものでした。引退後すぐに脳卒中で倒れたロスは、神を独裁者呼ばわりし、死を願ったそうです(彼女は結局9年の闘病生活を経て、最期は家族にみとられて息を引き取りました)。そんなロスの姿は多くの人を幻滅させました(NHKのドキュメンタリー番組「最後のレッスン 〜キューブラー・ロス かく死せり〜」 より)。

このキューブラー・ロス、ヨブ記のヨブにとても似ていると思います。ヨブは、神の手で幸せを奪われ、さらに皮膚病を患って苦しみます。そして友人たちが、勝手なイメージをヨブを押し付けることによって、さらに苦しめられて、神を呪います。ロスと同様なんです。でも、ヨブもロスも、死を願いながら、自ら死を選ぶようなことはせず、与えられた生命を全うしようとしていると思います。なぜ人は生きるのでしょうか。

ロスは、脳卒中のために不自由になったことを、自分自身を愛するための「最後のレッスン」だと理解したそうです。ロスは人生を人が学ぶべき課題として受け入れて、自分には自分自身を愛するための学びが足りなかったから、だから「最後のレッスン」が必要なんだと考えたのです。彼女は死の前日まで「死の準備がまだできていない」と言っていたそうです。「最後のレッスン」を死の直前まで続けていたんだと思います。ロスと同じように、ヨブもまた、すべてを失い、皮膚病を患う惨めな自分が、神に、そして友人たちに本当に愛されているのか、あるいは自分自身が自分を愛することができているのかどうか、そのことを疑いはじめ、そのことを学んでいるんじゃないでしょうか。

人の老いや衰え、病や障害にも意味があるのかも知れません。本当の自分、ありのままの自分、生かされている「わたし」自身を、人は受け入れることができるのでしょうか。これからも、ヨブ記の物語に聴いて行きたいと思います。

次週の主日礼拝は12月15日(日)午前10:30~11:45です。アドベント(待降節)第3主日礼拝です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録16章1~5節です。牧師のお話のタイトルは「相手に合わせる」。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

2 Comments

    • 申し訳ありません。残念ながら英語のページはありません。管理者の力不足、あるいは人材不足ですね。

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