2013年12月15日主日礼拝報告

レゴのアドベント・カレンダー

レゴのアドベント・カレンダー

アドベント(待降節)第3主日礼拝でした。画像は子供たちが楽しみにしている、レゴのアドベントカレンダーです。このアドベントカレンダーの窓が全部開くと、いよいよクリスマスの日(25日)を迎えます。子供礼拝メッセージは牧師が担当しました。聖書箇所は旧約聖書・創世記12章1から10節、「アブラハムがえらばれた」というタイトルでお話ししました。物語で、神ヤハウェはなぜアブラム(後のアブラハム)を選んだんでしょうか。アブラハムは特別立派な人でも、特別正しい人でもありません。どちらかといえば、定まった家もなく放浪しているような半人前の男なんじゃないでしょうか。神ヤハウェはそんな男と共に歩み、やがて子孫をイスラエルという大きな国としていく、そんな神である、聖書はそのことを証言しているのでしょう。

礼拝の中で新約聖書・使徒言行録16章1~5節を読みました。牧師からは「相手に合わせる」というタイトルでお話をしました。

使徒パウロは、それまで宣教活動を共にしてきたバルナバと別れ、テモテという男を宣教旅行の同伴者とします。そしてパウロはユダヤ人であったテモテに「割礼」を受けさせます。「割礼」はユダヤ教の儀式で、通常は生後八日目に施されるものです(でもテモテは父親がギリシャ人だからか、受けていませんでした)。パウロは、ユダヤ人ではない外国人にまで「割礼」を求める、ユダヤ人キリスト教徒に反対して、外国人には「割礼」を求めないことを教会会議で勝ち取ったばかりでした。しかも、パウロがテモテに「割礼」を受けさせたのは、宣教旅行中にユダヤ人の会堂に入りやすくするためだったと思われます。つまり、これは形だけのことなのです。 パウロは間違ったことをしたと僕は思います。

ユダヤ人に対して宣教しようとするために、自分たちをユダヤ人に合わせようとするなら、形(「割礼」)にこだわるよりも、自らを低くして相手の弱さと連なろうとすべきではなかったでしょうか。イエスが、「罪人」と呼ばれた人々と交流を深め、そのことが原因で捕えられ、苦しみを受けて、十字架で死に渡されたことも、「罪人」に対して自らを低くした出来事だと理解すべきだと思います。でもパウロがここでテモテにさせていることは、それとはまったく違います。

薬物依存者の社会復帰を応援する「ダルク」という団体を作った、近藤恒夫さんという方が書いた『拘置所のタンポポ』という本に、こんなことが書いてあります。「クスリを断とうと思うなら、弱かったと反省するのではなく、もっと自分を知り、弱かったと思うなら、なぜ弱かったのかを掘り下げることだ。クスリに手を出す人は心の痛みを持った人だ。自分はどんな痛みを持っているのかを考えることだ」(12ページ)。薬物依存と共に生き続けるためには、自分をよく知って、弱さを掘り下げて、自分の弱さを考え続ける必要があるって言うんです。以前出会ったMさん(ニックネーム)のことを僕は思い出します。僕が以前いた教会では、NA(ナルコティクス・アノニマス:薬物依存者の自助グループ))のミーティングのために週に一度会堂をお貸ししていました。そのメンバーのMさんはミーティングの前に、会堂の前に跪いて額を床につけて祈っていました。それは単なるポーズではなくて、Mさんが自分の弱さを認めて自分を低くしていたんだと思います。

自分を知り、自分の痛みを知って考え続けること、それは薬物依存者に限ったことではないと僕は思います(誰もが薬物依存者になり得ますし)。痛みを知らない、弱さを持たない人は誰一人いません。相手のために、相手に合わせて、相手に尽くそうとするのなら、うわべだけ、見せかけだけ、相手に合わせて、相手に取り入ろうとするよりも、わたしたちは、まず自分の弱さと、自分の痛みを知り、そのことについて考え続ける必要があります。

次週の主日礼拝は12月22日(日)午前10:30~11:45です。アドベント(待降節)第4主日ですがクリスマス礼拝です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記16章7~17節です。牧師のお話のタイトルは「神がわたしにしたこと」。どなたでもぜひご参加ください。

次週礼拝後にはクリスマスの愛餐会(祝会)を行います。クリスマスを祝ってみんなで食卓を囲みます。どなたでもぜひご参加ください。会費は無料です。

報告:山田有信(牧師)

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