2015年1月18日主日礼拝報告

教会の暦では降誕節第4主日でした。

第1部子供の礼拝では新約聖書・マタイによる福音書3章13~17節を読んで、メンバーのOさんが「大人になった日」というタイトルでお話をしてくださいました。「子供」はいつ「大人」になるんでしょうね。そもそも「子供」と「大人」ってどこが違うんでしょう。考えさせられました。

第2部の礼拝では、新約聖書・使徒言行録22章22~29節を読んで、牧師から「一市民として」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「一市民として」

使徒パウロはここでエルサレムの民衆に殺されそうになるという危機を迎えています。そこでパウロは弁明の機会を与えられ民衆に向かって演説をします。ところがその演説が民衆の怒りによって打ち切られます。状況をコントロールしていたローマの千人隊長はパウロを匿いますが、そこでパウロはまた新たな危機を迎えることになります。おそらく状況があまりよく分かっていない千人隊長によって拷問(鞭打ち)に遭いそうになるのです。ここでパウロを救うのが「ローマの市民権」です。市民権を持っていると裁判で有罪にならない限り鞭打ちの刑が免除されたそうです。そしてローマ帝国の市民であるという名誉も与えるものでした。

火起こしの道具を持つイシ(1914年) Wikipediaより

火起こしの道具を持つイシ(1914年) Wikipediaより

室健二さんという評論家が書いた『非アメリカを生きる』を読んで、イシと呼ばれたアメリカの「インディアン」のことを知りました。1911年アメリカのカリフォルニア州オロビルという町を彷徨っているところをイシは発見されました。イシは、白人アメリカ人によって滅ぼされたヤヒ族の一員でした。ヤヒ族はすでに滅びたと思われていましたがイシの一族の一部は生き延びていたようです。けれども追われるうちにバラバラになりイシだけが生き残って発見されたのです。イシは間もなくサンフランシスコに連れて行かれカリフォルニア大学の人類博物館で5年ほど穏やかに暮らした後、病気で亡くなります。

怒りよりも寛容が普遍的なものであるということを室健二さんはイシの生き方から学んだそうです。イシの部族も一族も家族も銃を使う白人アメリカ人たちに滅ぼされました。ですからイシが白人たちに敵意をむき出しにして暴れたりしたとしても何の不思議もありません。親しい者を殺した者を憎み復讐し、復讐を受けた方が今度はまたやり返すという憎しみの連鎖に囚われるのが世の中では当たり前と言っても良いのかも知れません。けれどもイシは憎しみを向けないどころか白人たち友好関係を作って行ったというのですから驚きです(必ずしも対等な関係とは言えないけれども)。イシは怒りよりも寛容を選んだのです。そして多くのアメリカ人がそんなイシを愛したそうです。

国家とは何でしょうか。国境とは何でしょうか。「インディアン」は白人たちが上陸する前からそこに住んでいた先住民です。そこにはまだ国家という概念はありませんでした。でもそこに白人たちはやってきてアメリカという国家を作りました。今アメリカの市民権を持つことでそれなりの名誉と権利を得ることができます。けれどもアメリカという国そして市民権というものはイシのような「インディアン」を殺して作られたものです。こういうことは今後も起こるかも知れません。より強いものがその土地を力によって支配します。力の前では永遠に続く国家などないのです。

パウロを窮地から救ったのがローマの市民権だったということはちょっと不思議なことです。パウロを救ったのは神でもないし信仰でもありません。パウロが偶然ローマ市民として生まれついたということだけです。パウロは『フィリピの信徒への手紙』の中で「わたしたちの本国は天にあります」(3章20節)と書いていますが、ここでは天に属する者であることよりもローマの市民であることに助けられるのです。実に不公平・不平等・理不尽なことです。イシの部族は「インディアン」として生まれたことで滅ぼされました。一方にはローマ帝国市民として生まれた恩恵に浴する者もいます。それがこの世界の現実です。そういう現実を考えると今日の聖書箇所が何を語ろうとするのか僕にはよくわかりません。

ある時イシは人類学者の家族と一緒にキャンプに出掛けたそうです。キャンプのある夜イシはちょっと出かけてしばらく居なくなり、戻って来たときに学者の子供にこう言ったそうです。「うまくいっている。誰も迷ってはいない。みんなは自分たちの道を見つけた」。室健二さんによるとそれはたぶんもう亡くなっているイシの他の家族が死者の国でうまくやっているということだそうです。そのキャンプの場所はかつてイシの家族が住んでいた近くであり、白人の手から逃げる途中で渡った川の傍だったのです。イシはそこを見て感じて自分の家族が死者の国でうまくやっていると確信したんですね。このことを僕なりに言い換えるとすれば、イシは人が生きているときも死ぬときも死んでからもいつも何か大きな力につながっていると信じていたということだと思います。イシにとってそのことはインディアンだろうと白人であろうと変わらないことだったんじゃないでしょうか。そのことがイシに恨みではなく平和や寛容を与えていたんじゃないかと室さんは書いています。この世界で起こる様々な出来事を越えてもっと大きな何かにすべての人がつながっているというその考え方がイシに白人に対する恨みを抱かせなかったということです。

死者の国が本当にあるのかどうか僕には分かりません。パウロの言っている「天」というものが実在するのかどうかも僕には分かりません。でも多くの国籍を越えて生も死も越えて何か大きなものにすべての人がつながっているような気が僕はします。そして誰もがそのことを信じて国籍の異なる人ともお互いに寛容になれたらと僕は思います。人の力によって引かれる境に囚われることなく「あなた」と「わたし」を見ることができますように。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後は会堂清掃、定例役員会を行いました。皆さまのご協力に感謝します。

次週は交換講壇礼拝です。大阪淡路教会は日本キリスト教団の大阪教区中部地区にあります。その地区のいくつかの教会が参加して二つの教会の間で牧師を交換して礼拝します。今回は天満教会との間での交換講壇です。天満教会から春名康範牧師をお迎えします。聖書箇所は新約聖書・ルカによる福音書4章16~30節、春名牧師からのお話のタイトルは「郷里は近くて遠い距離にあり」です。礼拝中出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後には春名牧師を囲んで茶話会を催す予定です。こちらにもぜひどうぞ。

報告:山田有信(牧師)

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