2014年1月11日主日礼拝報告

教会の暦では降誕節第3主日でした。

第1部子供の礼拝では、新約聖書・ヨハネによる福音書11章38~40節を読んで、メンバーのOさんが「いきかえるということ」というタイトルでお話をしてくださいました。墓にいるラザロにイエスは「出て来なさい」と叫びました。ラザロのいるべき場所は墓では無かったのかも知れませんね。礼拝の終わりに「祝祷」というものがあって、牧師はいつも「…ここを出て行きなさい」と祈っていますが、Oさんはそのことにも触れられました。ラザロの復活とつながりのあることなのかも知れないと教えられました。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記25章1~6節を読んで、牧師から「神のささやき」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「神のささやき」

ささやきというのは、その人だけに聴こえる声です。「わたし」だけに響く声です。

五木寛之『運命の足音』(2002年)

五木寛之『運命の足音』(2002年)

ところで、ささやきは直接耳にだけ聴こえるものではないようです。作家の五木寛之さんは『運命の足音』というエッセイ(2002年)の中で亡くなったお母さんのささやきのことを書いています。それは五木が長年封印してきた記憶でした。1945年・敗戦の年、五木は今の北朝鮮の平壌にいたそうです。日本の植民地とされていた朝鮮で五木の父母が教師をしていたからでした。当時五木は一二歳。その年の夏、平壌にソ連軍が入城します。その日五木の自宅にソ連の兵士たちが突然やって来て、五木の父親に銃を突きつけながら、病気で長く床に伏せっていた母親を、そうとは知らず、暴力的で淫らな思いを持って踏みつけたそうです。すると母親は激しく吐血して、驚いた兵士たちは母親を布団ごと外に放り投げました。その間の記憶は断片的にしか残っていないそうです。それから、兵士たちは目ぼしいものをねこそぎ奪い去って行き、五木と父親は、放り出された母親を居間に運んだそうです。その日から五木の母親は何も口にしなくなり、そしてやがて亡くなりました。五木がこのエッセイを書いた当時でそれから57年が過ぎていました。五木はこう書いています。「私はときどき夢のなかで、庭から父と私に抱きかかえられて居間へ運ばれた母親が、かすかに微笑して、私たちにこうつぶやくのをきくことがある。『いいのよ』」。敗戦の年に起こった出来事を五木は57年間封印して忘れようとして来たそうです。罪悪感にさいなまれ続け小説として書くことなど、どうしてもできませんでした。ようやく思い出さずに済むようにもなっていました。でも若いころの母親の写真が突然送られて来たことがきっかけで記憶が鮮明に蘇ります。もちろんそれは苦しい経験だと思います。でも五木はそれから57年前の出来事を初めて文章として書きました。「『もう、書いてもいいのよ』という母親の声が、最近、どこからともなくきこえてるようなってきたからである」と五木は記しています。

五木の体験が時代の大きな影響によって生み出されたものであるように、人は戦争や災害など大きな出来事に翻弄されます。そして人はその背後に神を見ようとします。ヨブの友人ビルダドの信じる神は大きな強い神です。人はその力の前でただ従う他ないと言います。

けれどもヨブはそのような神に従おうとはしません。人を動かすのは神の大きな力ではなく、もっと小さいささやくような声なのではないかと僕は思います。「わたし」たちの神は、多くの人をいっぺんに飲み込んでしまうような大きな出来事に働くような神ではなくて、その人・「わたし」にしか聴こえない声でささやく神なのではないかと思うのです。

このヨブ記も38章に至って、問い続けるヨブに対してずっと沈黙してきた神がついに語りだします。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と記されています(38章1節)。神は嵐の中から語り掛けています。嵐ですからそこにいるすべての人を巻き込んで、すべての人に大きな影響を及ぼすものであるはずです。でも不思議なことにここで嵐の中からの声を聴いているのはヨブ一人だけです。友人たちにはその声は聞こえません。その声が大きな声なのか、小さな声なのか、書いていないのでそれは分かりません。でも、それを聴いたのがヨブだけだったということからすれば、それは神のささやき声として理解してもよいのではないかと僕は思います。

その人にしか聴こえないということ、「わたし」だけに聴こえるということが一番大切なことだと思います。他の人には聞こえなくてもいいんです。「わたし」に聴こえていればいいんです。その声こそが、人のすべてを包み込み、良くも悪くも人を動かし、人を立たせる、想いを生み出す赦しとなるものなんだと思います。

わたしたち一人一人がそれぞれの重荷を負って生きています。その重荷の重さはその人自身にしか分かりません。また、そんなわたしたちを大きな力が翻弄します。政治が、経済が、国際情勢がわたしたちを巻き込みます。天候が、災害が、事故がわたしたちを苛みます。けれどもそんな大きな力の中にも実は「わたし」だけにささやく声があるのかも知れません。他の人には聴こえない、「わたし」だけに意味を持ち、「わたし」を立たせ、「わたし」を押し出す誰かの声が響いているのかも知れません。そのささやきを聴き分けることができますように。

(以上、牧師のお話の要約)

礼拝後にはクリスマスの後片付に勤しみました。皆様ありがとうございました。

次週は、教会の暦では降誕節第4主日。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録22章22~29節、牧師からのお話のタイトルは「一市民として」です。礼拝中出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後には会堂清掃、定例役員会の予定です。

報告:山田有信(牧師)

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