教会の暦では復活前第6主日でした。レント(受難節)に入っています。
第1部は礼拝。旧約聖書・ヨブ記26章1~4節、27章1~6節を読んで、牧師から「神に息る」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
「神に息る」
今月9日でボンヘッファーというドイツの牧師さんが亡くなって70年になります。ボンヘッファーは死刑にされて死んでしまいました。なぜ死刑になったかというと、ヒトラーという人を暗殺しようとして失敗したからです。ヒトラーによって処刑されたんです。
ヒトラーというのは、昔のドイツでとても人気のあった人でした。ヒトラーは戦争を始めて次々と勝って行ったので、ドイツの大勢の人たちがヒトラーを応援しました。でもそのうちにヒトラーはドイツ人(正確には「アーリア人種」)が世界で一番優れているのに、豊かになれないのはユダヤ人のせいだと言い出して、ユダヤ人をすべて殺そうとしました。そして実際にユダヤ人(他にも「障害者」や働かない人、治らない病気の人などなど)を大勢捕まえて殺しました。その数600万人とも1,100万人とも言われています。そんなドイツの中でヒトラーのしていることはおかしいと感じていたのはボンヘッファーやほんの少しの人々だけだったので、ヒトラーはどんどん力を持ち誰も止めることができなくなってしまいました。それでボンヘッファーたちは密かにヒトラーを殺す計画を立てましたが失敗に終わったのです。でもボンヘッファーは牧師です。それがたとえヒトラーのようなひどい人間でも殺していいのでしょうか。
なぜボンヘッファーはヒトラーを殺そうとしたのでしょう。神がどんな人でもその一人の人を愛して大切にする方だっていうことを信じていたからです。イエスという人がどんな人でも愛して一人の人を大切にする生き方をした人だからです。だから人を大事にしないヒトラーを許すわけにはいかなかったのです。
でもボンヘッファーは、自分がヒトラーを殺そうとすることは間違いだということもよく知っていました。聖書の中にはイエスのこんな言葉があります。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書5章39節)。神はどんな人も大切にする方ですから、たとえその相手がヒトラーのようなひどい人殺しでも絶対に殺してはいけないということをボンヘッファーは知っていたんです。
でもそれでもボンヘッファーはヒトラーを殺す計画に加わりました。どうしてかと言うとイエスがそういう人だったからです。イエスは他のみんなが嫌っていたような人たちと仲良くしていました。でもそんなことをするイエスを許せない人たちもいました。そんな人たちがイエスを捕まえて死刑にしてしまったんです。誰もイエスを助けることはできませんでした。みんなイエスを見捨ててしまいました。でもイエスが死んだ後、のこされた人たちはイエスが死刑にされて死んでしまったことを、イエスが「神の子」として人間の「罪」のために死んでくれたのだと考えるようになりました。人がどうしても誰かをのけ者にしてしまったり何も悪いことをしていないイエスのような人を死なせてしまったりすること、人間がどうしてもしてしまうそういうよくないことを、イエスは背負って死んでくれた、イエスはそれくらい人間のことを愛してくれた、そんな「神の子」だったんだと考えたんです。そしてボンヘッファーもそのことを信じていました。だから自分も、人を殺すことはしてはいけないと神とイエスが言っているとを知っていても、でも自分の手でヒトラーを殺して、人を大事にして愛する神について行こうと決心したんです。
どうしてボンヘッファーにはそんなことができたんでしょう。ヒトラーは大きな力を持っていた人ですから、もし失敗したら殺されてしまうことは分かっていました。でもそれでもボンヘッファーはヒトラーを殺す計画に加わりました。それは神がいつもどんな時でもボンヘッファーと一緒にいてくれると信じていたからだと僕は思います。ボンヘッファーは死刑にされるとき、お祈りをして、落ち着いて、堂々と死んで行きました。それを見ていたお医者さんは「これほど神にすべてをゆだねて死に就いた人(死んでいった人)を見たことがない」と言ったそうです。
わたしたちはこれからみんなで一緒にご飯を食べます。イエスがどんな人とでも一緒にご飯を食べて仲良くしようとしたことを想い起こすためです。このご飯の席にもイエスは一緒にいてくださると僕は信じます。神よ共にいてください。
(以上、牧師のお話の要約)
第2部の礼拝は「主の食卓礼拝」でした。今回はメンバーのOさんが中心になって準備をしてくださいました。別の投稿もごらんください。
次週3月1日は教会の暦では復活前第5主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録23章12~22節、牧師からのお話のタイトルは「すべての道は…」です。礼拝中も出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)