2015年2月15日主日礼拝報告

Mさんが献げてくださったお花

Mさんが献げてくださったお花

教会の暦では降誕節第8主日でした。

第1部子供の礼拝では新約聖書・マタイによる福音書4章18~22節を読んで、メンバーのOさんが「網に掛ったわたし」というタイトルでお話をしてくださいました。何に、誰に従うか、確かにそれは自分自身で決めるべきことですね。

第2部の礼拝では、新約聖書・使徒言行録23章6~11節を読んで、牧師から「引き裂くか包み込むか」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「引き裂くか包み込むか」

使徒パウロの物語の続きです。

「千人隊長」:拷問しようとしたパウロがローマの市民権を持っていることを知ると千人隊長はとたんに恐れ始めます。それでも事態を掌握していると格好をつけるためにパウロをどうするかユダヤの会議に諮ります。権威に弱く格好だけを気にする小心者です。それに対してパウロはその会議を混乱させています。まずは大祭司が誰か分からなかったというあり得ない嘘をついていました(使徒言行録23章5節)。そして今日の箇所では、自分と信仰的な立場の近い一派(「ファリサイ派」)に訴えかけて煽り、対立している別の派(「サドカイ派」)との間で論争を起こさせます。

「ファリサイ派」:イスラエルの宗教が大切にしている律法―今の旧約聖書の一部ですが―、人がこの律法の精神を持って生きることを大切にする人々です。パウロ自身もこのファイサイ派だとここで言っていますし、あのイエスもファリサイ派だったと考えられています。パウロはそんなファリサイ派の人々にこう訴えます。「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(六節)って言うんです。でもこれ何でいきなりこんなことを言い出すのか良く分かりません。これはやはりパウロの策略ということなのではないでしょうか。ここで話は死んだ人が復活することがあるのかないのかという一般論になってしまっています。ここにいるファリサイ派の人々は乗せられやすくてすぐに焚き付けられる主体性の乏しい人々です。

「サドカイ派」:一言で言うとしたら格式を重んじる人々ということになるでしょうか。律法の内容よりも神殿を中心とした儀式の方を重んじる祭司たちが多かったと考えられています。だから地位的なことでいうとファリサイ派の方が民衆に近い立場で、サドカイ派は祭司や金持ちが多かったようです。今日の箇所を見るとサドカイ派は「復活も天使も霊もない」と言っていたようですが、神殿で行われる儀式を大切にしたい人たちですから、死んだ人が復活して現われたとか、天使が何かを告げたとか、霊が現われたなんてことになると神殿の価値がなくなってしまいます。復活も天使も霊も神殿なんかなくたって起こるし現われますから。だから、当然復活も天使も霊も否定することになるのかもしれません。こういう人々もわたしたちの現実にいます。すぐに伝統とか格式とか由緒とか言いだす人々です。

こうして見て来ると、今日の聖書箇所の顛末が内容的にはどうでもいいものだということが分かってきます。ここでは一見「復活」があるのかないのかという宗教的には重要なテーマが問題になっているかのように見えなくもないのですが、でもその中身の議論の内容なんかありません。ただ騒ぎが大きくなってしまって、パウロの身に危険が生じて、千人隊長は仕方なくパウロをまた救い出すということが起こるだけです。千人隊長には結局何も分からずじまいです。

この一連の顛末は使徒言行録の著者ルカが誰かから聞いた話に基づいて面白おかしく書いたドタバタ劇のようなものではないでしょうか。ローマの千人隊長のような格好をつけたがるせっかちで乱暴な小心者と、誰かの発言にすぐ乗っかって「そうだそうだ」ってやる乗せられやすいファリサイ派のような人々と、やたらと伝統とか格式とか由緒を重んじようとするだけのサドカイ派のような人々と、そしてボケてみたり煽ったり焚き付けたりして騒動を大きくするパウロのような人がいて、人の現実は回って行くってことをルカは描いているんだと思います。わたしたち一人一人はどの立場にもなり得ます。迷惑をこうむる側にもなり得るし、人を騒動に巻き込んだり迷惑をまき散らす側にもなり得えます。

こんなドタバタ劇に何か意味があるんでしょうか。意味があるのかないのか僕にはよく分かりません。でも著者のルカが記したこの物語のオチがふるってると僕は思います。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ、エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」(11節)。人生には色んなことが起こります。暴力に巻き込まれることもあるし、病気にもなるし、生命も失いかねません。事故も起こるし災害も起こります。迷惑な隣人もいて騒動に巻き込まれることもあります。自分だって人をそんな目に遭わせるかも知れません。世の中には自分の思い通りになることなんかほとんどないと思います。日々はドタバタです。でもそんな「わたし」が何かに生かされている、何かに守られている、日々のドタバタに押しつぶされてもうダメかと思ったのに、誰かが「わたし」を生かしている、皆さんそう感じたことがあるはずだと思います。もしかしたらそれは復活のイエスとの出会いという経験かも知れません。パウロはローマの信徒への手紙にこう認めています。「わたしは確信しています。…他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙8章38~39節)。

(以上、牧師のお話の要約)

次週2月22日は教会の暦では復活前第6主日です。「主の食卓礼拝」を行います。礼拝の中で共に食卓を囲みます。今回の食事はメンバーのOさんが用意してくださいます。メニューは鳥ゴボウ混ぜご飯と汁物です(変更になる可能性あり)。どなたでもぜひご参加ください。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記26章1~4節、牧師からのお話のタイトルは「神に息る」です。礼拝中も出入り自由です。

報告:山田有信(牧師)

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