2015年2月8日主日礼拝報告

教会の暦では降誕節第7主日でした。

第1部子供の礼拝では新約聖書・ヨハネによる福音書13章1~5節を読んで、メンバーのOさんが「でしのあしをあらう」というタイトルでお話をしてくださいました。弟子たちの足を洗う「救い主」の姿は、人が他者に接する時に想い起すべきものかも知れませんね。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記26章5~14節を読んで、牧師から「取るに足りないちっぽけな神」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「取るに足りないちっぽけな神」

今日の聖書箇所を、新共同訳聖書にあるようにヨブの言葉としてではなくて、前章25章から続くビルダド(ヨブの友人)の言葉として読みます。その方が内容的にしっくりくるからです。ここでビルダドは神について語っています。ビルダドが語り出す神は、聖なる山の上から地と水の下にある死者の国までを支配しています。時に地上の神殿に降りて来て玉座から陰府の国で死者が苦しむのを見ています。神がそのような神であるなら人はただ恐れて従うほかありません。けれどもヨブはそんな神を信じません。神がただ人を一方的に従わせるだけの存在ではないことを信じて、神に問いかけ、神が語り掛けてくれるのをヨブは待ち続けています。そしてヨブが信じ続けるそんな神こそイエス・キリストにつながる神ではないかと僕は思います。

ルカによる福音書の15章14節にイエスが語ったとされるたとえ話が記されています。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」(新共同訳)。「野原に」とありますが、この言葉は聖書の他の箇所では「荒れ野」と訳されている言葉です(例えば同じくルカ福音書1章80節)。イエスが語っているこのたとえ話は、当時宗教的な決まり事によって定められていた「罪人」と呼ばれた人々とイエスが交流していることを咎める人々に向かって語られているものです。「罪人」とは具体的には障害者、精神病の人、皮膚病の人、宗教的な決まり事を守ることができない人々です。宗教的な決まり事よりも「罪人」の一人を大切にすべきだと言いたいのでしょう。けれどもこのたとえ話の内容はとても厳しいものです。どうしてかと言うと、荒野に残された99匹の羊はそのままでは確実に盗まれるか荒野の野獣に食われるかだからです。でもそれでもイエスは見失われた一匹の羊を探すと言うのです。

そしてイエスという人は実際にそのように生きる「救い主」です。宗教的な決まり事が「罪人」を造り出して、それを排除することで自分たちを義しい者とするという横暴が多くの人を苦しめていました。そんな横暴に「屈しない」ためにイエスは何をするでしょうか。イエスは「罪人」を造り出す人々に怒りをあらわにすることはあっても直接暴力で対抗することはしません。イエスがするのはただ人を大切にすることだと思います。「罪人」と定められて邪魔者扱いされて社会の外に置かれた人々の「罪」をイエスは赦します。「罪は赦された」と告げて、つきあうことを禁じられていた「罪人」たちとの交流を深めます。イエスはやっぱり小さくされた一人を大事にするんだと思います。

けれどもその結果、ユダヤ宗教の指導者たちや民衆からの反感を買ってローマ帝国の手で十字架につけられることになってしまいます。でもイエスは、捉えられて十字架につけられて処刑されるまで誰にも刃向うことなく攻撃することもありません。そのまま息を引き取ります。そんなイエスの姿を見てローマ帝国の百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」、そう言ったとマルコによる福音書は記しています(15章39節)。哀れで悲惨な姿になったちっぽけな人を見て百人隊長はその人を「神」だと言っているんです。

残されたイエスの弟子たちや女性たちはどうしたでしょうか。徒党を組んで武装して立ち上がってユダヤ教団やローマ帝国に立ち向かったでしょうか。イエスを殺した「報い」を受けさせようとしたでしょうか。そうではありません。彼らはやがてイエスの「復活」を信じるようになります。イエスのしたことや言ったことに大きな意味があると信じて、自分たちもまた一人の人を大切するという営みをイエスと共に続けることにしたのではなかったでしょうか。

後藤健二さんのしたことを迷惑に感じる人もたくさんいるのかも知れません。幼い子供二人と連れ合いさんを残して彼は殺されました。身代金を要求されたりヨルダンに居る死刑囚との交換を要求されたりしたことで国際問題にもなっています。けれども後藤さんのしたことの本質はなんだったでしょう。それは湯川さんという一人の仲間をなんとか助けようとしたということじゃなかったでしょうか。確かにそれは99匹の羊を荒野に置き去りにするようなことなのかも知れません。でもそれでも一匹の失われた大切な羊を全力を挙げて探し求めたんだろうと僕は思います。

後藤健二さんのtwitterより

後藤健二さんのtwitterより

そして後藤さんは自分と湯川さんが殺されたことに対して報復とか償いとかそういうものはたぶん望んでいなかったんじゃないかと思います。後藤さんはインターネット(twitter)上にこんな言葉を遺しています。「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」(@kenjigotoip)。もちろん他に色んな思いがあったんだろうと想像します。無念だったことでしょう。でも99匹のことはさておいて湯川さんを救いたいと願って全力で行動した後藤さんが報復や裁きや償いを求めるとは僕には思えません。

後藤さんは決して英雄ではありません。弱くされた小さき者を大切にすることで力の前にただ弱くされて行った、あのキリストの証し人だと僕は思います。小さき者の生命を奪う暴力に屈しないためにすることは、力で戦うことではありません。力で戦うことはビルダドの言っている大きな強い神に従うことだと思います。それは人を義しい人か「罪人」かだけで裁いて罰する神に従うことです。後藤さんの遺志を継ぎ、後藤さんの想いに寄り添い、後藤さんと共に戦い続けることは、相手を裁くことでもないし罪を償わせることでもありません。小さくされている者、弱くされている者、失われようとされている者、たった一人の人すべてを大切にすることだと思います。後藤さんはそのように戦っていたのではないでしょうか。キリストと共に、そのように生き、そのように戦いましょう。

(以上、牧師のお話の要約)

次週2月15日は教会の暦では降誕節第8主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録23章6~11節、牧師からのお話のタイトルは「引き裂くか包み込むか」です。礼拝中も出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後は会堂の清掃と定例役員会を予定しています。

報告:山田有信(牧師)

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