教会の暦では復活前第5主日でした。レント(受難節)を過ごしています。
第1部はこどもの礼拝。旧約聖書・創世記41章37~40節を読んで、牧師から「ファラオのゆめ」というタイトルでお話をしました。夢が人と人とつなぎます。未来に対してもそんな夢を描きたいですね。
第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録23章12~22節を読んで、牧師から「すべての道は…」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
「すべての道は…」
ヒーローと言うと、やはり颯爽と現れて悪を成敗し格好よく去って行くというイメージでしょうか。でもその対極にあるヒーロー(?)がいます。やなせたかしさんの「アンパンマン」です。アンパンマンが最初に登場したのは1974年。ある雑誌に『熱血メルヘン・怪傑アンパンマン』というタイトルで掲載されました。この作品にはやなせさん自身を投影したものと思われる「ヤルセナカス」という青年漫画家が描かれています。ヤルセナカスは漫画が売れず食べることにも困っていました。あるときお腹が空いてたおれそうになっているヤルセの前にアンパンマンが現われます。そしてヤルセ青年にアンパンでできた顔を差し出してこう言います。「さあ、おれのほっぺたをすこしかじれよ/えんりょするなガブリといけ」。青年が顔をかじると、顔が欠けたアンパンマンは弱って、よたよたと飛んで去っていきます。その後、助けられた青年は、アンパンマンを題材にした漫画の企画を編集者に持ち込みますが、顔のアンパンをかじられた格好の悪い主人公では売れないと断られてしまいます。ここにはやなせさんの実体験が表現されているものと思われます。アンパンマンは格好悪いヒーロー(?)なのです。
アンパンマンはやなせさん自身の従軍体験と弟さんの特攻による戦死を背景に生まれたヒーローだと言われています。正義の戦いだと信じていた戦争に敗れてみると、自分のして来たことが決して正義とは言えなかったことにやなせさんは気づかされます。また、やなせさんは自分よりも才能があると思っていた弟が死んで自分が生き残ったことの意味を、戦後問い続けたそうです。なぜ自分が生き残ったのか、何のために生きるのか、正義とは何か、それは重い問いでした。やなせさんは『アンパンマンの遺言』という本にこんなことを書いています。「正義のための闘いなんてどこにもないのだ/正義はある日突然反転する/逆転しない正義は献身と愛だ/目の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンをあたえること」。「正義とは献身と愛だ」それがやなせさんの出した結論だと思います。そしてそれを体現するとても格好の悪いヒーロー(?)アンパンマンが描かれ、それがやがて子供たちに熱烈に受け入れられて行くのです。
使徒言行録に著者ルカの描いた使徒パウロの姿もまた相当格好の悪いものです。結局パウロはエルサレムの人々を納得させることはできませんでした。かえって40人以上のエルサレムの人々が憎しみを募らせてパウロを殺すことを決意します。でもパウロは何もすることができません。ローマ兵に守られていて、甥っ子をローマの千人隊長のところに遣わすだけです。こうなったらエルサレムに行って殉教でもすれば格好イイのかも知れませんが、それもできずローマの力のおかげでただ生き延びるのです。相当格好悪い。
そんなパウロの姿は今を生きる「わたし」たちと重なるところがあると思います。歳を重ねるごとに身体はいろいろなところが傷ついて思うように動かなくなって行きます。疲れやすくなって起き上がっていることさえままならなくなってしまいます。感覚や思考もだんだん鈍って来て、場合によっては自分のことさえ分からなくなって行きます。見た目も同様です。老いを隠すことはできません。そんな衰えた自分の姿というのは、若いころの自分と比べたら、それはやっぱり格好悪いものなんじゃないでしょうか。
年老いてより死を意識するようになると死に方を考えるようになります。身体が動くうちに死にたいとか、病院では死にたくないとか、無様な姿を人目にさらしたくないとか、ちょっとでも自分の理想に近い死に様を考えます。少しでも格好よく死にたいのです。でも実際はどうか。何があろうとやっぱり生きようとする人がほとんどです。どんなに傷ついても格好悪くても醜くても、やっぱり今日も明日も生きようとするんです。人の手を借りて、世話になって、おんぶにだっこで、それでも人は生きるのです。でもそうするとある問いが頭に浮かんできます。「いったい何のために生きるのか」「どうせじきに死ぬというのに、今日を生きることに何の意味があるのか」。
格好の悪いパウロはどうか。使徒言行録23章11節を見ると、主イエスが現われてパウロにこう言っています。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。パウロはローマに行くために無様に生き永らえるのです。ローマに行ってもこれまで同様何ができるという訳でもないと思います。でもそれでもパウロは生きるのです。格好よく死ぬよりも、傷つきながら痛みながら老いを重ねながら生きて行くのです。なぜならそれが主イエスを「証し」することだからだと使徒言行録の著者は記しているのだと思います。
やなせたかしさんは「献身と愛」こそが正義だと言います。その正義を託したのがアンパンマンです。自分の身体を差し出して、身体を傷つけられ弱ってしまいながらも、それでも人を支えるために生きようとする姿こそヒーローのあるべき姿だとやなせさんは考えたのです。それは十字架に向かうイエスの姿と、格好悪く生き延びてローマに向かうパウロの姿と、そして死という十字架とローマに向かいながら生きる「わたし」たちの姿にも重なるものなんじゃないでしょうか。傷つき衰え弱くされながら生きることそのものが、自分の身体を差し出して人を支えようとする愛というものを「証し」することなんだと僕は思います。だから「わたし」たちは今日も、格好悪く傷だらけで弱りながらフラフラになりながらも、でも胸を張ってとりあえず今日を生き延びましょう。
(以上、牧師のお話の要約)
次週3月8日は教会の暦では復活前第4主日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記27章7~12節、牧師からのお話のタイトルは「目撃したはずだ」です。礼拝中も出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)