2015年3月8日主日礼拝報告

教会の暦では復活前第4主日でした。レント(受難節)を過ごしています。

第1部はこどもの礼拝。新約聖書・ルカによる福音書2章8~14節の言葉を読みました。メンバーのOさんが「いのち」というタイトルでお話をしてくださいました。誰もが自分らしく楽しく生きて行けますように。そのことを心から願います。

第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記27章7~12節を読んで、牧師から「目撃したはずだ」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「目撃したはずだ」

イネ(Wikipediaより)

イネ(Wikipediaより)

ヨブの友人たちは、悪人が繁栄を極め、苦しむ人をさらに苦しめることによって富を築いているという現実を見ているはずなのにそこから目を背けています。12節の「あなたたち自身、それを仰いだのに/なぜ、空しいことを繰り返すのか」というのは、友人たちがその現実を実際に見ているのに「神に背く者は必ず滅びる」と繰り返すばかりであることを責めるヨブの言葉です。友人たちの目的は、掟のように定められ固定化してしまっている神と人との関係をヨブにも認めさせることだけです。自分たちの信仰をヨブに押し付けることにしか関心はないのです。そのため、友人たちの押し付ける神のイメージと彼らの信仰に対してヨブはここで別れを告げることになります。

ところで東日本大震災の被災地や被災者に対しても、ヨブの友人たちの同じようなことをしていないでしょうか。震災から4年が経ちます。以前ほどは被災地の情報が報道されなくなっています。その中で被災地や被災者に対するイメージが固定化されてしまっているところがあるのではないでしょうか。

例えば福島のお米の生産はどうなっているでしょう。福島では今でも出荷する米袋の全袋(年間約1000万袋)を検査をしています。そのうち、2012年度には71袋、2013年度には28袋、2014年度分については今のところ検査にかかったという情報はありません(https://fukumegu.org/ok/kome/)。福島県から流出したと言われる人口はどうでしょう。震災前の福島の人口は約200万人、震災後県外に避難している人の数は現在約4.6万人だそうです(開沼博『はじめての福島学』)。

つまり、いわゆる「復興」が進んでいる部分も現実の福島には意外とあるということです。もちろん「だからもう大丈夫だ」と言いたいのではありません。今も想像を絶する苦しみの中で日々を過ごしている人ももちろんいます。他にも問題はたくさんあります。だから必要な支援はやはり必要です。でも被災地や被災者に対するイメージが「悲惨で危険、気の毒だ」というところで止まってしまっているところがあると思うんです。でも、いつまでも悲惨・危険・気の毒というイメージでしか見ないことは、ただ的の外れた支援を生み出すだけでかえって害を生み出すことになってしまうのではないでしょうか。善意に基づいて生み出される害悪ほど相手を苦しめるものはありません。

むしろわたしたちは、例えば福島から学ぶべき段階に来ているのではないでしょうか。福島で今起こっている問題はどれもわたしたちの問題でもあります。地震はいつどこで起こるか分かりません。大阪だって原発から100キロくらいしか離れていませんし、府内にも原子炉はあります。福島では今福島第1原発の廃炉に向けて作業が続けられていますが、日本にはまだ廃炉の終わった原子炉はありません。放射線量の高いゴミをどうするかという人類全体の問題にも福島は取組み始めています。農業の衰退は全国レベルの問題ですが、福島の農家の人々は地震と原発事故といわゆる「風評被害」に立ち向かって農業を立て直してきています。人口の流出や減少も全国各地で問題になっていることですが、福島は震災にも拘わらずそれをある程度抑えています。実はわたしたち自身の問題でもある数々の問題に、福島を始めとする被災地はいち早く取り組み始め、今も懸命に取り組み続けていて、ある程度の成果をあげて来ているということなのではないでしょうか。

だから必要とされている「支援」を続けるにしても、わたしたちはまず固定化して古くなってしまったイメージ―被災地=悲惨・危険・気の毒みたいなイメージ―を、現実に即して新しくして被災地の問題を自分自身の問題として考えて直して行く必要があると思います。それは単に「防災」みたいな話ではなくて、実はわたしたち自身が”これからここで”どうやって生きて行くのかということなんだろうと思います。

現実に対する間違ったイメージ、固定化されてしまって新しくされないイメージは、たとえそれが善意に基づくものであったとしても人を傷つけるものになってしまいます。あの主イエスが「律法」と呼ばれた決まり事によって固定化された「罪」を見るよりも、その「罪」によって「罪人」とされた人々が懸命に生きる現実の方を観たように、わたしたちは古い現実離れした、人の気持ちからも遠く離れたイメージにヨブと一緒に別れを告げたいと思います。あの日あの時、わたしたちはあの出来事を目撃しました。そしてこれからもわたしたちは被災地に、福島の今の現実に、まなざしを向け続けて自分自身を新しくし続ける必要があります。

(以上、牧師のお話の要約)

次週3月15日は教会の暦では復活前第3主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録23章23~35節、牧師からのお話のタイトルは「愛すべき小心者」です。礼拝中も出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後は会堂の清掃と定例役員会の予定です。

報告:山田有信(牧師)

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