2015年3月15日主日礼拝報告

ゲッセマネとオリーブ山(Wikipediaより)

ゲッセマネとオリーブ山(Wikipediaより)

教会の暦では復活前第3主日でした。レント(受難節)を過ごしています。イースター(復活日)まで後3週間。

第1部はこどもの礼拝。新約聖書・マタイによる福音書26章36~39節の言葉を読みました。メンバーのOさんが「いこか、もどろか、もどるよか、ひっとべ」というタイトルでお話をしてくださいました。ゲッセマネでのイエスの祈り、確かにそれは、旅立つときに「それは本当に自分がなすべきことなのか」とイエスが神に問いかける営みだったのかも知れませんね。そしてイエスは「ひっと」んだのか、そうか。

第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録23章23~35節を読んで、牧師から「愛すべき小心者」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「愛すべき小心者」

昨日、保育所聖愛園の卒園式に参列しました。式の中では卒園児が一人一人卒園証書を受け取って、その後将来の夢を語ってポーズをとったりなんかするんですが、その中の一人の子が将来の夢をこう語りました。「僕は大きくなったらマジシャンになって、みんなを楽しませたいです」。そして、その後その子は、右手を前に伸ばして人差し指で前の方を指さしました。それだけじゃなんだか分かりませんよね。僕も見ていてあれ?って思ったんです。するとそこにすかさず先生のナレーションが入りました。「今指先からテレパシーを出しております」。なるほどと思いました。ポーズとナレーションがうまくかみ合って、みんなを楽しませました。もう立派なマジックショーになっていたわけですね。考えようによってはその子の指先からはみんなを楽しませるテレパシーが本当に出ていたということなのかも知れません。見えないものが人と人との関わりの中でとても大きな力を生み出すことがあるのです。

今日の聖書箇所を含む一連の物語は使徒パウロを中心に展開しています。でもここにはもう一人大きな役割を果たしている登場人物がいます。それはクラウディウス・リシアという男です。でもこの男、キリスト者でもなければ、パウロの影響を受けた人物でもありません。信仰とは程遠い男です。でもこのリシアという男は、著者ルカの手によって活き活きと語られています。なぜここまで語られる必要があるんでしょう。

使徒パウロとの関わりの中でリシアは確かに大きな役割を果たしています。ローマの千人隊長として、何度も訪れるパウロの危機をリシアは救ったのです。でもリシアは決してパウロの理解者ではありません。味方とも言えないかも知れません。そしてそれほど有能な男でもありません。まずパウロに何度も危機が訪れること自体が問題を解決する能力をリシアが欠いていることを物語っています。結局リシアはパウロを中心にエルサレムで起こった騒動の処遇をユダヤの総督に丸投げするしかありません。今日の聖書箇所にはリシアが総督に宛てた手紙の内容が記されています(著者はどうやって中身を知ったのでしょう)。それを読むと、一生懸命自分には責任は無いということをリシアが主張しようとしているのがよく分かります。自分に都合の悪いこと(市民権を持つパウロを裁判もせずに縛って鞭で打とうとしたこと)には触れていません。パウロが持っているローマの市民権を初めからとても尊重していたかのような内容にもなっています。やたらとパウロの肩を持つ内容でもあります。責任逃れですね。このリシアという男、要するにたいした男じゃないんです。

もしかしたら、これはただの偶然かも知れません。ルカが知っていたことを全部書いちゃっただけなのかも知れない。でもこのリシアがいなかったら、やっぱりパウロはエルサレムで死んでいたかも知れません。そうしたらこの後、ローマに行くこともなかったかも知れない。パウロがローマに行くことがなかったら、この後キリスト教がローマ帝国の国の宗教になることもなかったかも知れません(それがキリスト教会にとってよいことだったかどうか。必ずしもそうは思えないけれども)。

そう考えるとですね、このリシア、たいした男じゃないけれども、それでもやっぱりキリストの証人なんだなぁと僕は思わされるんです。そう思うと、この使徒言行録という書物のこの後半部分は、確かにパウロが中心になっている物語ではあるんですが、決してパウロの物語ではないのです。これはやっぱり神の物語です。神がイエス・キリストを通して、パウロを通して、どんな風に人に喜びを伝えて行くのかという物語なんだと思うんです。今日の物語は、神がリシアという男でさえ用いて神の愛を伝えようとするんだというルカの証言なんじゃないでしょうか。

そうだすると、わたしはクリスチャンだからどうとか、あれは反キリスト的だからどうとか、キリスト教以外の宗教はどうとか、味方だとか敵だとか、仲間だとか裏切り者だとか、わたしたちの現実はそういう単純なものではないということだと僕は思うんです。神の働きはよく見えない複雑な現実の中すべてに働いているということなんじゃないでしょうか。もし神の計画や神の意志というものがあるとしたら、それはわたしたちが生きているこの世界の現実の隅々にまで働いているのかも知れません。ちっぽけで無力なわたしたち一人一人の小さな日常にも神の計画は進んでいるじゃないでしょうか。神がこんな現実を許すはずがないと思われるような出来事の中にも神の意志はあるのかも知れません。善と悪とか、正義とか悪じゃなくて、世界と現実そのものが神の働きを証言するものなんだ、そんな風にこの世界を、この世界の現実を見直す必要があるのかも知れないなぁと僕は思わされています。

(以上、牧師のお話の要約)

次週3月22日は教会の暦では復活前第2主日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記27章13~23節、牧師からのお話のタイトルは「悪人たちの行方」です。礼拝中も出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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