2015年3月22日主日礼拝報告

教会の暦では復活前第2主日でした。今はレント(受難節)を過ごしています。イースター(復活日)まで後2週間。

第1部はこどもの礼拝。旧約聖書・詩編71編4~9節の言葉を読みました。メンバーのIさんが「おばあちゃんのたんじょうび」という絵本を読んでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記27章13~23節を読んで、牧師から「悪人たちの行方」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「悪人たちの行方」

人はたった一人で生まれ、そしてたった一人で死んで行く孤独な存在です。この孤独から逃れる方法はないのでしょうか。一つの方法は、ヨブの友人たちのように何かを共有して集団を造り出すことです。友人たちは神への絶対服従によって報いを得ることができるという論理を共有して集団を形成しています。そしてその論理に合わない従おうとしないヨブを責め続けます。友人たちはきっと孤独を感じてはいないでしょう。誰でも神に従い真面目にコツコツ生きていればきっと幸せになれるというのですから、わたしたちにとっても友人たちの姿の方が救いになるのではないでしょうか。

でもひとつの論理に合わない人は必ず出て来ます。それが現実というものです。すると、その人が無理矢理自分を論理の方に合わせるか、集団の方がその人を排除して集団を保つしかなくなります。どちらにしても無理が生じます。自分を集団に合わせることも、集団から排除されることもこの上ない苦しみをもたらすのです。

集団と個人が折り合いをつけるために人には「こころ」というものがあるのだと言われています。相手の気持ちを推し量ったりするのは「こころ」の働きです。それがないと集団は成り立ちません。でも、集団に属することができない、自分はやはり一人なのだと知るのも「こころ」の働きです。だから「こころ」は集団と自分との間でいつも揺れ動いていて、傷つきやすいものなのでしょう。

今日の聖書箇所はヨブと友人たちとの対論の最後の箇所です。ここではヨブが友人たちの論理をほとんどそのまま同じように叩き返しています。「あなたたちが言いたいことはもう十分に分かっている。でも、それはあなたたち自身のことだろう」とでも言いたげです。ヨブは友人たちと決別するのでしょうか。ところがヨブ記はヨブの友人たちを最後まで「友人」と記しています。普通に考えればヨブと友人たちとの交わりが絶たれても不思議はないと思うのですが、ヨブはやがて友人たちのために取りなしの祈りを献げるのです(42章)。ヨブの姿は、一人一人断絶して生きている者同士が、その断絶に絶望することなく、どう共に生きるのかという姿勢を示しているのではないでしょうか。「みんな一緒だ」、「この教えに従って生きることで誰でも幸福になれる」というようなものを優先させて孤独な現実を誤魔化して消し去ろうとするのではなくて、まず断絶を認め、孤独であることを知って、でもそのことに絶望することなく、バラバラな一人一人がなお共に生きようとすることにヨブは挑戦するのです。

今日神によって教会に集められた者は、また一人一人別々にそれぞれの場所へ散って行きます。この営みもまた、一人一人違う者同士がどう共に生きるのか、そのことに取り組む営みなのではないでしょうか。孤独であることに絶望はしません。わたしたちは神によって集められて共に生きることに挑戦する教会だからです。

(以上、牧師のお話の要約)

次週3月29日は教会の暦では「棕櫚の主日」です。イエスのエルサレム入城を記念する日とされています。聖書箇所は新約聖書・マルコによる福音書1章21~28節、牧師からのお話のタイトルは「この人から出て行け」です。礼拝中も出入り自由です。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は「ほっとコーヒータイム」です。コーヒーやお茶をいただきながら、DVD『ナザレのイエス』の続きを30分ほど鑑賞します。こちらにもぜひどうぞ。

報告:山田有信(牧師)

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