2015年9月6日主日礼拝報告

Mさんがささげてくださったお花

Mさんがささげてくださったお花

教会の暦では聖霊降臨節第16主日でした。

第1部の子供の礼拝では旧約聖書・出エジプト記2章23~25節を読みました。牧師から「けいやく」というタイトルでお話をしました。神さまは、アブラハムと交わした契約を忘れていたのでしょうか。そのせいでイスラエルの人々は長い間苦しまなければならなかったのでしょうか。でも忘れてはいけません。イスラエルの人々を苦しめていたのはエジプト人とファラオなのです。わたしたちのこの国でも同じようなことが行われています。よくよく考える必要があるでしょう。

第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録27章13~26節を読み、牧師から「船は失っても」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「船は失っても」

大阪淡路教会の礼拝堂は船をかたどって作られていますが、聖書の中で船はどのように語られているのでしょう。

①ノアの箱舟(旧約聖書・創世記6章~):ノアが造った箱舟は、神が引き起こす大洪水の中を地球上の生物が生き延びるための船でした。どうして神が洪水を起こしたのかというと、それは神の創った世界が悪に満ちてしまったためでした。世界を一度リセットするために神は洪水を起こすのです。その洪水の中を生き延びる生命を神は選びました。それはノアという男とその家族、そしてノアが集めたつがいの生き物でした。つまり、ノアの箱舟には神に選ばれた者しか乗ることができないのです。

②漁船:ルカによる福音書の5章にはイエスが弟子にする漁師たちが乗った漁船のことが語られています。魚が獲れなくて落胆している弟子たちに、イエスはもう一度沖に漕ぎ出して漁をするように言います。半信半疑の弟子たちが言われた通りにしてみると、今度は船が沈みそうになるくらい大量の魚が獲れます。そして、そのことに驚いた漁師たちはイエスの弟子になります。そしてイエスは弟子たちに言うのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。つまり漁船は、船に載せられないほどのたくさんの人間を獲るための船なのです。

③渡し船:同じルカによる福音書の8章には、湖の向こう側に渡るためにイエスと弟子たちが乗り込んだ渡し舟が出てきます。湖を渡る途中でイエスは寝入ってしまいます。すると突風が吹いて、船は水をかぶって揺られます。弟子たちが恐れてイエスを起こすと、イエスは風と荒波を叱りつけて沈め、弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言います。弟子たちはそんなイエスに驚いて、風も波も従えるイエスの力を称えます。つまり渡し船は、狂う波の中を恐れおののきながら人がしがみつく船、イエスという救い主の力を求め、その力を称えるための船なのです。

④難破船:今日の聖書箇所ではパウロたち一行の乗った船が遭難する様子が語られています。季節風が強く航海しにくい冬を越すために、すぐ隣の港に移動しようとした船は、強い風に煽られて沖に流されてしまいます。乗っている船はもうどうにもならない、もう誰一人助かる者はいない、この船に乗った二七六人の誰もがそう思ったときに、パウロはこう言いました。「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」(使徒言行録27章22節)。船はいつか必ず沈みます。でも、たとえ船が沈んでも、船そのものは失われても、それでも続く生命を紡ぎ出すのが、パウロの乗っている難破船なのです。

教会としての船は、選ばれた者だけを乗せる船ではなく、たくさんの人を獲るための船でもなく、神の偉大さを讃えるための場でもないと思います。むしろ、戸を開き、常に新しくされ、新しい人と人のつながりを生み出し育み共に生きることを目指し、船そのものには固執しない、そんな船なのではないでしょうか。

(以上、牧師のお話の要旨)

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第17主日。朗読する聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記30章16~23節(新共同訳旧約聖書813ページ)です。牧師から、「沈黙が突き刺さる」というタイトルでお話をします。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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