2015年8月30日主日礼拝報告

大阪淡路教会の講壇

大阪淡路教会の講壇

教会の暦では聖霊降臨節第15主日でした。

第1部の子供の礼拝では旧約聖書・出エジプト記2章16~22節を読みました。牧師から「きりゅうしゃ」というタイトルでお話をしました。言葉や文化・宗教・背景の違う相手と一緒に生きることは、皆にとって大変なことです。でもその違いに向き合うことは、きっと楽しいチャレンジになると思います。

第2部の礼拝では新約聖書・マルコによる福音書1章35~45節を読み、牧師から「イエスを探して」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「イエスを探して」

キリスト教に限らず、およそ宗教と呼ばれるものは、人から人へと何かを伝えることによって成り立っています。でも、キリスト教会というところでは、いったい誰が何を伝えるんでしょうか。牧師というものになる前、あるいは牧師になってからも、僕は、何か正しい教えのようなものなのか、それとも、永遠に通用する普遍の真理のようなものなのか、そうしたものを学んで、追及して、身に着けて、それを人に伝える、それが牧師の役割であるかのように考えていました。でも僕は、そういう思い込みが間違いであることにだんだんと気づかされて来ています。

朗読していだだいた聖書箇所の後半部分、40節から後の部分は、皮膚病の男がイエスに癒されるという話ですが、非常にちぐはぐでぎこちないお話になっています。皮膚病を癒して欲しい一心でイエスを探して来た男に対して、どうしたわけか、イエスは怒っています(「深く憐れむ」という41節の言葉も、もともとは「怒った」という言葉であったと考えられています)。男の方も、イエスが言うことをまったく聞いていないかのようです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」(44節)とイエスは言うのですが、男はイエスの言うことなんか全然気にしていません。祭司のところへなんか行かないで、自分の身に起こったことをみんなに宣べ伝え始めるのです。

イエスが怒っているのは、皮膚病の男が律法で定められたルールを守らずに、のこのこ人前に出てきたことに対してだと考えられるのですが、イエスはそんなに律法に厳格な人だったでしょうか。イエスももちろん怒ることはあります(例えば、マルコによる福音書11章15節以下)。でも、不正に対して怒ることはあっても、一人の病人に対して、しかも律法を守っていないからというのは、律法を守ることよりも人を大切にしたイエスの姿とは一致しません。

この記事がこんなにちぐはぐでぎこちないのは、もともとは律法に厳格なイエスについての言い伝えだったお話を、福音書の著者マルコが福音書に採り入れたからだと考えられています。でもマルコがほかの箇所で伝えるイエスの姿と、この記事の中のイエスの姿は一致しないのです。そこから、このお話のぎこちなさが生まれています。なぜマルコは、律法にこだわって怒ってさえいるイエスの姿を、自分の福音書に採り入れたのでしょう。それは、律法を守らずにのこのこやって来て、イエスの言うことを聞かずに、イエスのことを皆に告げ広めている、この男の姿に感銘を受けたからなのではないかと僕は思っています。

教会の中では、よく「拙い信仰」とか、「弱い信仰」とか、そういう言葉を聞くことがあります。「信仰が浅い」とか、「信仰が足りない」とか、そういう言葉も耳にします。でも、皮膚病の男を見てください。男はイエスと出会って、イエスに病を癒されてすぐに、イエスのことを告げ広めています。ここには信仰の「拙さ」「弱さ」「浅さ」「足りなさ」などまったく関係なく、イエスと出会った喜びを告げる男の姿があるだけです。マルコはここに心を動かされたのではないでしょうか。この男の姿は、律法を守るという「正しい信仰」「強い信仰」に囚われて怒っている、おかしなイエスの姿を上回る何かを著者マルコに感じさせたのだと思うのです。

教会の営みは、それぞれの信仰、つまりイエスとのそれぞれの出会いを持ち寄って、それを一人一人が語って、分かち合って、そして新しくされる、そういうものではないでしょうか。一人一人それぞれのイエスとの出会いに、正しいも間違いも、強いも弱いも、深いも浅いもありません。喜びに満ち溢れて、出会ったばかりのイエスのことを告げて回る男の姿に新しくされて、今日わたしたちはそれぞれの場へと戻って行きましょう。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後には「ほっとコーヒータイム」を催して、礼拝の中の要素のひとつ「平和のあいさつ」について皆で考えました。「平和のあいさつ」というのは、礼拝参加者同士が握手をして挨拶を交わすものですが、その「平和あいさつ」に苦痛を感じる人がいるという現実があります。その現実をどうとらえて、「平和のあいさつ」をどうして行けばよいのか話し合いました。皆様のご協力に感謝します。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第16主日。朗読する聖書箇所は新約聖書・使徒言行録27章13~26節(新共同訳新約聖書268ページ)です。牧師から、「船は失っても」というタイトルでお話をします。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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