2015年8月16日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第13主日でした。

第1部の子供の礼拝では新約聖書・マルコによる福音書8章5~10節を読みました。メンバーのOさんが、「ありがとう…」というタイトルでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録27章1~12節を読み、牧師から「危険な航海へ」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「危険な航海へ」

ピエトロ・ダ・コルトーナ『パウロの回心』1631年(Wikipediaより)

ピエトロ・ダ・コルトーナ『パウロの回心』1631年(Wikipediaより)

2年にわたって軟禁状態にあった使徒パウロは、罪状も定まらないままローマに向かうことになります。パウロがローマ皇帝に上訴していたからです。けれども季節は秋から冬へと向かっていました。西からの強い季節風のため、ローマへの航海はなかなか進みません。途中、クレタ島の港で、パウロはふと不安を覚えます。そしてパウロたち一行の乗った船は、冬を越すための港へ移動しようとして、とんでもないことになってしまいます。

ふとした瞬間に、自分の人生に対して一抹の不安を感じるということは、きっと誰にでもあることでしょう。それどころか、毎日毎日不安ばかりという人もいるかもしれません。この先、自分は大丈夫なんだろうか。このまま生きて行くことはできるんだろうか。不安は人を苛み、蝕んでいきます。そんなとき、人はどうすればよいのでしょうか。

何か関係のないことをすることで、不安を打ち消すことができるでしょうか。あるいは、自分の考え方を変えて、不安に結びつくようなことを考えないようにすることができるでしょうか。それとも、何か不安を感じさせるようなものを徹底的に排除して安心を手に入れようとするでしょうか。けれども、どれも一時しのぎに過ぎません。結局は不安に向き合わないようにするための方法でしかないので、解決策にはならないでしょう。

じゃあ、人を苛み蝕んでいく不安を、いったいどうすればよいのでしょうか。僕は思うのですが、不安に満ちたこの世界を生きて行くために必要なのは、不安を分かち合う自分の相手ではないでしょうか。不安というものは、たぶん完全に消えることはないものだと思います。不安に苛まれ、不安の海におぼれそうになっている「わたし」に必要なのは、その海を一緒に渡る仲間、強がってみせたり、飾ったりする必要ない、危険に満ちたこの世界を共に生きて行く相手なのではないでしょうか。

マルコによる福音書の5章に、長年病に苦しんできた女とイエスの物語が記されています。女は癒されたい一心で、群衆をかき分けてイエスの服に後ろから触れます。すると女の病は癒されます。でももしこの物語がここで終わっていたら、女はきっとまた不安に蝕まれることになったのではないでしょうか。また病がぶり返したらどうしよう、新たな病に侵されたらどうしようか、病気が治ったのはよいけど、これからどうやって生きて行きて行けばよいのか、そんな不安が彼女を襲ったに違いないと思います。

けれども物語は、ただ病が癒されたということでは終わりません。イエスは、服に触れた相手を血眼になって探すのです。そして多くの群衆の中からこの女を見出します。女は恐れを感じて、震えながらひれ伏してイエスに「すべてをありのまま」話します。するとイエスはこう言います。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。今後も女の不安が消えることはないと思います。でも女はきっと安心も感じながら、イエスの去ったその後を生きたのではないかと僕は想像します。どうしてかというと、きっと女はこの時のイエスの眼差しを忘れることはなかっただろうと思うからです。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は、会堂清掃と定例役員会を行いました。皆様のご協力に感謝します。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第13主日。朗読する聖書箇所は旧約聖書・ヨシュア記3章14~17節(新共同訳旧約聖書343ページ)です。福島県の白河教会から竹迫 之牧師をお招きしてお話をしていただきます。お話のタイトルは「明日への勇気」。どなたでもぜひご参加ください。

また礼拝後0:45から2:35まで、竹迫牧師に講演していただきます。テーマは「『信じる』ということ カルト・震災・原子力・そして…」です。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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