2015年8月2日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第11主日・平和聖日でした。

第1部の子供の礼拝では新約聖書・ルカによる福音書15章18~21節を読みました。メンバーのOさんが、「胃カメラをのみ」というタイトルでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録26章24~32節を読み、牧師から「狂気か、真理か」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「狂気か、真理か」

林えいだい『陸軍特攻 振武寮』(Amazonより)

林えいだい『陸軍特攻 振武寮』(Amazonより)

戦時中、福岡女学院の寄宿舎が「振武寮」と呼ばれた陸軍の収容所として使われていたそうです。そこに収容されていたのは、沖縄戦に備えて編成された、陸軍航空隊の特攻隊「振武隊」の隊員たちでした。戦争末期、重い爆弾を搭載して敵に特攻できる機体が不足していました。動員された女学生たちが部品を作り、整備兵たちが懸命に整備をしても充分ではなく、故障などのために墜落したり、不時着したり、戻って来る隊員が後を絶ちません。そうした隊員が多くいると、次に出撃する隊員たちの士気に影響します。そこで軍の上層部は戻って来る隊員たちを収容所に押し込めて再教育しようと考えたのです。

戻って来た隊員たちが何をされたかというと、帰還を労われることなく、まずは「なぜ生きて帰って来たか」と問われます。「死ぬべきであった」ということです。そして長時間ねちねちと説教されたそうです。やがて彼らは「振武寮」に収容され、朝から罵倒され、体罰を受け、反省文と教育勅語、軍人勅諭を延々と書かされました。

軍は「振武寮」の存在をひた隠しにしていましたし、特攻できなかったことは「恥」と考えられていましたから、なかなか証言する人もいませんでした。そのため戦後もその実態はよく分かりませんでした。その実態を明らかにして行ったのは、林えいだいさんというノンフィクション作家の方でした(『陸軍特攻 振武寮』)。振武寮に収容されていた人々や関係者、航空軍の参謀などの証言、司令官の日誌などをもとに「振武寮」の実態を著したのです。

林さんの本を読んで、特に僕の印象に残っているのは、航空軍の参謀が戻って来た隊員を怒り狂って虐げる様子です。その参謀は「振武寮」へ行っては、朝から酒の匂いをプンプンさせて、竹刀で殴り、反省文などの文章を繰り返し書かせ、戻って来た隊員たちを虐待しました。

「狂う」としか言いようのない状態になってしまうことが人にはあると思います。普段のその人、今まで知っていたその人からは考えられないような言動を取ることがあるのです。使徒言行録26章24節(新共同訳新約聖書)でパウロは「お前は頭がおかしい」と言われています。でも、本当におかしかった、狂っていたのは以前のパウロだと思います。同26章11節でパウロは、イエスに出会う前の自分についてこう語っています。「至るところの会堂でしばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」。キリスト者に激しい迫害を加えて、信じていることを捨てるように強制して、死刑にまでしていたと言うのです。

かつてのパウロと、振武寮の参謀の姿が重なって見えます。共通しているのは、一人の人の存在よりも、他の誰かから与えられた何らかの価値観を重んじているということと激しい怒りです。なぜ、パウロも参謀もカッとなって相手に暴行を加えることになってしまうのでしょうか。自分の信じていることが正しいと信じているなら、怒る必要はないと思うのです。僕は怒りの感情そのものを否定するつもりはありません。でも、何か理不尽なことに対して心の底からふつふつとわいてくる怒りと、相手にイライラしてカッとなってどなりちらすような怒りとでは、かなり違うような気がします。

「救い主」と呼ばれるイエス・キリストも群衆の狂気の中で十字架につけられました(マルコによる福音書15章)。群衆の狂気の前でイエスは成す術なく死にました。人の狂気の前で、人の怒りの前で、誰もが無力であることをイエスは示していると思います。十字架の上からイエスは何を語っているでしょうか。

あの戦争から70年。かつて多くの若者が「国のために死ぬのは当然のことだ」という誰が作ったのかよく分からない価値観を植え付けられて死んでいきました。生き延びれば「なぜ生きて帰って来たか」と責められ虐げられました。その価値観がもし本当に正しいことなら、そのことについて静かに話し合えばよいはずです。でもそうはなりません。竹刀が必要になり、強制収容所が必要になり、暴力が必要とされます。それはなぜなのでしょうか。

真理を伝えるために必要なのは暴力ではありません。強制も必要ありません。今日の聖書箇所の中で、パウロはアグリッパにこう言っています。「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」。自分が信じることのために必要なのは祈りです。他のことではありません。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は、子供一泊お泊り会を行いました。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第12主日。朗読する聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記30章9~15節(新共同訳旧約聖書813ページ)です。牧師のお話のタイトルは「ブレーキのない車」。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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