教会の暦では聖霊降臨節第10主日でした。
第1部の子供の礼拝では新約聖書・マタイによる福音書5章9節を読みました。メンバーのKさんが、『よしこがもえた』という絵本を読んで、「戦争と平和」をテーマにしたお話をしてくださいました。争いが起こった時に巻き添えになって被害を受け易いのは、常に弱い立場に置かれている人たちです。かつて起こってしまったようなことを繰り返すことがないようにしたいです。
第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記30章1~8節を読み、牧師から「ろくでなし」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「ろくでなし」
今日の聖書箇所、旧約聖書・ヨブ記30章の1節から8節には、人を蔑むような言葉がたくさん出てきています。例えば3節には「無一物で飢え、衰え」とあります。これを岩波書店から出版されている『ヨブ記・箴言』で見ると、「欠乏と飢えによって生殖の力を失い」となっています。1節には「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ」(新共同訳)とあります。ここで「彼ら」と言われているのは、ヨブを嘲う、ヨブよりも若い人々です。かつてヨブは人々の尊敬を集める人物でしたが、家族を失い、財産を失い、皮膚病になって苦しむようになると、ヨブを尊敬していた人々は掌を返したようにヨブを嘲い始めたというのです。それで、この箇所ではヨブが、そんな人々のことを逆に蔑むような言葉を並べているのです。まずは、彼らの父親は犬以下だとヨブは言います。そして彼らは子を産むことさえできない人々だと言います。そしてどこの馬の骨かも分からない、そんな奴らなのだとヨブは言っているんです。でもここには矛盾があります。もしそんな彼らが子孫を残せない人々だとしたら、一体その父親からどうやって彼らは生まれたのでしょう。どこの馬の骨か分からないような人々の父親をヨブはどうやって知ったのでしょう。矛盾しています。
この箇所に書き連ねられている言葉は、ただただ人をののしり、蔑むための言葉なのでしょう。矛盾などどうでもよいのです。でも、ヨブ記の作者は、どうしてヨブにこんな言葉を語らせるのでしょうか。なりふり構わず敵をののしるヨブの姿に、僕はどうしても「ヘイトスピーチ」と呼ばれる、相手を傷つけ、おびえさせるための言葉を大音量で発し続け、相手の生命を削り取っている人々のことを思わずにいられません。安田浩一さんの『ヘイトスピーチ「愛国者」たちの憎悪と暴力』という本に、インターネット上に、特に在日韓国・朝鮮人の女性を貶める、憎悪の言葉を書き連ねる人物のことが記されています。インターネット上で、匿名でなされる書きこみは、書いた本人を特定するのが非常に難しいのですが、安田さんは被害者の人たちの協力も得て、その人物の正体を探り当てて取材に行ったそうです。ネット上の書き込みによれば、その男は豪邸に住んでいて、高級外国車を乗り回しているはずでしたが、実際の男は無職同然で、アパートに住む還暦目前の男だったそうです。男は取材には応じず、警察を呼んで安田さんを追い払いました。
外国人を恐れ、在日韓国・朝鮮人を恐れてヘイトスピーチを繰り返す人々について、安田さんはこう書いています。「とにかく”異なる他者”を差別することでしか、自我を保つことができない。あるいはそうすることでしか自らの優位性を訴えることができない」。またヘイトスピーチに参加する、普通のOLの方の言葉「増え続ける外国人が怖くて仕方ない」を安田さんは記しています。ヘイトスピーチを続ける人々の心の奥底には、どうやら底知れない恐れがあるようです。誰でもいいから攻撃し続けていないと、自分を保てないのかも知れません。でも、安田浩一さんはヘイトスピーカーの心には恐れがある、恐れがヘイトスピーチを生み出すのだというような答えを出そうとしているのではありません。安田さんの記述は、絶えずヘイトスピーチを繰り出す側の人々の言動を丁寧に書き起こしたものですし、ヘイトスピーチによって傷つけられる側の人々の姿を丁寧に記したものです。わたしたちはそれを丹念にたどる必要があります。
けれども、ただただ人を蔑むために繰り出す言葉の根っこにはその人が抱える恐れがあるというということを知っておくことも、わたしたちにとって幾らか意味を持つことではないかと僕は思います。なぜなら、、自分一人ではどうすることもできない恐れが、人を蔑みののしるようなことをしてしまう、そういう言動の根っこにもしあるのだとしたら、それは決して他人事ではないからです。誰もが恐れのようなものを心の中に持っているからです。もし、わたしたちが今日収入を断たれるようなことになったら、もし何かで住まいを失ってしまったら、やっぱり誰もが恐れを抱いて生きて行かざるを得ないのではないでしょうか。
もちろん、恐れを抱いているから、何をしても構わないということにはなりません。でも、例えばヘイトスピーチを、自分とは関係のない、どこかのおかしな奴らがやっていることに過ぎないとも言えないはずです。恐れは誰もが抱えるものだからです。相手をただただののしり蔑む言葉を繰り出している、このヨブの姿も、ヨブが抱えている恐れ、苦しみの中にある恐れを示すものではないでしょうか。
イエスは、湖で嵐に見舞われた舟の中で怯えてイエスを起こした弟子たちにこう言います。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(新共同訳新約聖書・マルコによる福音書4章40節)。イエスに娘の病気を治してもらおうとしたのに、間に合わずに娘を失ったヤイロと言う男に、イエスはこう言っています。「恐れることはない。ただ信じなさい」(同5章36節)。いったい何を信じろと言うんでしょうか。残念なことに、イエスははっきりと言っていません。「神を」とも、「わたしを」とも、○○を信じろとも言っていません。だからきっと、これを信じれば、これさえ信じれば、誰でも怖れを克服できますよということではないのだろうと僕は思います。でも、それでも、何かを信じれば、怖れに支配されることがないのだとしたら、わたしたちはそれを追い求める価値はあるのではないでしょうか。
そして、もしかしたらそれは、わたしたち一人一人が、自分の抱えている恐れをしっかり見つめて、恐れを持ち寄って、それを抱えながら一緒に生きようとすることなのではないでしょうか。恐れを抱く持つ者として、でも恐れに囚われたり、振り回されたりすることなく、そして、そのことによって誰も傷つけることなく、一緒に生きて行くことが、わたしたちにはできるのではないでしょうか。そしてその先にこそ、わたしたちが信じるべき何かがあるのではないか、僕はそんな風に考えさせられています。
(以上、牧師のお話の要旨)
礼拝後はほっとコーヒータイムでした。DVD『ナザレのイエス』を鑑賞しました。今回でこのDVDの鑑賞は終わりです。
次週は、教会の暦では平和聖日。朗読する聖書箇所は新約聖書・使徒言行録26章24~32節(新共同訳新約聖書267ページ)です。牧師のお話のタイトルは「狂気か、真理か」。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後は、「子供一泊お泊り会」を行います。午後はバーベキューの予定です。こちらも、どなたでもぜひ。
報告:山田有信(牧師)