2015年7月19日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第9主日でした。

第1部の子供の礼拝では旧約聖書・イザヤ書2章4節を読みました。メンバーのOさんが、「覚えてほしい…」というタイトルでお話をしてくださいました。かつて人が犯した過ちを、正当化したり、ごまかしたりするのではなく、しっかり記憶に留め続けたいですね。

第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録26章19~23節を読み、牧師から「どんな暗闇の中でも」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「どんな暗闇の中でも」

親鸞(Wikipediaより)

親鸞(Wikipediaより)

鎌倉時代の仏教は、国の安寧や貴族の利益のために祈るものになっていて、飢饉や災害・戦争の犠牲になって苦しむ民衆の心に響くものではなかったそうです。そうした当時の仏教に対して長年疑問を持ち続け、やがて法然と出会い、「南無阿弥陀仏」という念仏さえ唱えれば身分の違いや男女の区別もなく誰もが御仏の慈悲の心によって極楽浄土に導かれるのだという教えにたどり着いたのが、浄土真宗の開祖・親鸞でした。しかし、比叡山・延暦寺などで修行を積み、難しい仏典を読みこなし、悟りを開いて高僧と呼ばれるようになった僧侶たちは、親鸞に憎しみを向け流刑にしました。親鸞の教えが広まると、当時の仏教のシステムそのものが問われることになるからです。

今日の聖書箇所に出てくる使徒パウロと、この親鸞、そしてイエス・キリストには共通点があります。それは、彼らが説いたことや彼らの言動が、その当時の多くの人々の反感を買って、彼らが迫害を受けることになったという点です。親鸞はなぜ流刑にされたのでしょう。イエスはなぜ十字架につけられたのでしょう。今日の聖書箇所の中で、パウロはなぜ軟禁されているのでしょう。彼らはいずれも、当時の社会で力を持っていた宗教の指導者たちによって迫害されています。彼らは民衆が従わなくなることが、そんなに恐ろしいのでしょうか。

迫害に及んでしまうところに、宗教指導者たちの恐れがよく表われていると思います。もともと仏教は、民の救いを願ったブッタから始まったものだったはずです。キリスト教の母胎となったユダヤ教も、もともとはイスラエルの民を救うための教えだったはずです。それなのに、どちらも同じように、いつの間にか一握りの指導者たちが力を持つようになって、民衆の救いからかけ離れたものになって行ってしまいます。そして、苦しむ民衆の救いを願う、新しい(?)教えが広まる気配を見せると、その教えの指導者を迫害するのです。そこに、その宗教が民衆を救おうとするものではなく、実は民衆を従わせようとするものになってしまっていたという本質的な問題がよく表われています。

しかし多くの宗教がその後も同じことを繰り返しています。親鸞は「念仏さえ唱えれば」と説いたはずなのに、後のある宗派では「念仏を唱えなければ」救われない(成仏できない)となっていないでしょうか。イエスの時代のユダヤ教もそうです。神に救われたイスラエルの民にふさわしい生活のためにこそ「律法」と呼ばれる戒めはあったはずでしたが、いつの間にか「律法を守らなければ救われないになってしまっていました。だからこそイエスは、「律法」が差別し苦しめた人々に近づいて、ただ神の意志を問うことの必要性を解く必要があったのです。でもそんなイエスから始まったキリスト教も同じ過ちを繰り返します。イエスは「律法」を克服したはずだったのに、クリスチャンたちの中には、やはり「律法」を守らなければ救われないと主張する人々がいて、力を持って行ったのです。そこで、今度はパウロがイエスの福音・喜ばしい知らせを信じる者は、ユダヤ人でも外国人でも救われるのだと説く必要が出てきたのです。そのためパウロも、「律法」にこだわる人々から迫害を受けなければなりませんでした。そして、その後のキリスト教も、同じような歴史を繰り返しながら現在に至っています。「~さえすれば誰でも」が「~をするものだけが」に、「~さえ信じれば」が「~を信じなければ」に、いとも簡単に変わってしまうのです。

今日の聖書箇所の中で、パウロはこう言っています。「ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(20節、新共同訳聖書)。「ユダヤ全土の人々」なんてオーバーな言い方をしていますが、でもパウロが伝えていたことが、「~をしなければ救われない」などということではなかったことは分かります。パウロは自分が経験したイエスとの出会いに突き動かされて、悔い改めて、その悔い改めにふさわしく生きようと告げていただけです。そうしなければ救われないということではないのです。

わたしたちは、一人一人それぞれ何を信じようと自由だと思います。自分が信じたいと思うことを信じて生きるべきです。極端なことを言えば、例えば「わたしは聖書を読みません。聖書に書いてあることなんて嘘っぱちです」というキリスト教信仰があったっていいと僕は思うのです。ただその信仰を、他の人に押し付けて、従わせようとさえしなければよいのです。それは「聖書こそキリスト教信仰の礎です」というような信仰についても同様です。そのことが「だからあなたも聖書を読まなければなりません。そうしなければクリスチャンではありません」になってはいけないのです。なぜなら、イエスという人がそうではなかったからです。福音書を読むと、イエスが聖書の内容のことで相手を批判する場面があります。でも批判を受ける相手は、決して民衆ではありません。イエスからの批判を受けるのは、聖書に詳しい専門家か生活に余裕があって聖書を学ぶことができる相手くらいです。彼らは、聖書の教えによって自分で自分を救うことができると信じているし、聖書の教えによって人を従わせることができると信じている人々なのです。

信仰が人を従わせる力になってはいけません。一人一人の信仰を大切にして、それを持ち寄って合わせて、一緒に生きて行く、そういう道を共に歩みたいと思います。神の照らす光は、人を救いによって選別する道ではなくて、誰もが共に生きる道を照らす光だと僕は信じます。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は会堂清掃と定例役員会が行われました。ご協力感謝します。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第10主日。朗読する聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記30章1~8節(新共同訳旧約聖書812ページ)です。牧師のお話のタイトルは「ろくでなし」。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後は、「ほっとコーヒータイム」を行います。DVD『ナザレのイエス』を鑑賞します(約20分)。今回で完結です。こちらも、どなたでもぜひ。

報告:山田有信(牧師)

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