教会の暦では聖霊降臨節第8主日・「部落解放祈りの日」でした。
第1部の子供の礼拝では新約聖書・ルカによる福音書15章14~17節を読みました。メンバーのOさんが、「おなかがすいた」というタイトルでお話をしてくださいました。「食べる」ことはいろんな意味を持っていますね。生命をいただくことでもあるし、自分が生きることでもある。
第2部の礼拝では旧約聖書・ヨブ記29章21~25節を読み、牧師から「たとえ力が強くても」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「たとえ力が強くても」
「部落差別はまだあるのでしょうか」。上杉聰さんという部落史の研究家の著書『これでなっとく!部落の歴史』に書いてあったことを紹介します。上杉さんがある大学でアンケートを取ったそうです。設問は二つ。一つ目は「親しい友人が部落の人だとわかったら」どうするか。二つ目は「自分の子供の結婚相手が部落のひとだったらどうするか」。結果は、一つ目の設問に対しては「そっと離れるようにする」2%、「どうするか迷う」7%、「今まで通りつき合う」が91%でした。二つ目に対しては、「反対する」6%、「迷う」45%、「賛成する」49%でした。一つ目の設問はある学生さんの希望によるものだったのですが、その学生さんは、アンケート結果を見て、上杉さんの講義に来なくなったそうです。結果次第では、その学生さんは自分が部落出身者であるということを公表しようと考えていたけれども、自分の親しい友人が「離れる」2%、「迷う」7%の中に入っていたら、あるいは自分が想いを寄せている相手が、結婚に関するアンケートの「反対する」6%、「迷う」45%の中にいたらということを考えたのだろうと、上杉さんは書いています。部落差別は数字の大きさの問題ではないということだと思います。誰もが普通に自分の生まれは〇〇ですと誰にでも言えるようにならない限り、部落差別が無くなったとは言えないでしょう。
今日の聖書箇所では、ヨブと言う人がかつての自分自身を振り返って語っています。例えば22節では「わたしが語れば言い返す者はなく/わたしの言葉は彼らを潤した」(新共同訳)と語られています。ヨブがいかに優れた人物で、人々から尊敬を集めて、頼りにされていたかということがうかがえます。ところがそのヨブが、一転して人々から貶められるようになったということが、30章からは語られます。ヨブが悲惨な目に遭い、宗教的に「汚れている」とされる状態になると、手のひらを返したように蔑まれるようになったというわけです。同じ一人の人間が崇め奉られたり、貶められたり、同じ一人の人格なのにどうしてこんなことになるんでしょうか。その人自身の価値は何があろうと変わらないはずです。もちろん人間同士のことですから、好き嫌いはあると思います。でも、嫌いだったら、苦手だったら、その相手と距離をとればすむはずです。なぜ崇めたり、蔑んだりとういことになってしまうのでしょう。
イエスもまた完全無欠の存在ではありません。例えばマルコによる福音書7章24節以下は、イエスがある一人の女性を、たぶんユダヤ人ではないという理由で差別したということを語っています。でもその一方でイエスは、人を差別することを決して許さない人でもあります。イエスは、人を何らかの基準で価値づけたり、分け隔てすることを許しません。マルコによる福音書9章33節以下では、「誰がいちばん偉いか」と議論する弟子たちにイエスはこう言います。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(三五節、新共同訳)。そして、一人の子供を弟子たちの真ん中に立たせて、抱き上げてこう言います。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(新共同訳)。イエスは、自分こそが一番偉いと思いたい弟子たちを前に、そこで一番小さくて、一番偉くないと誰もが考えるだろう一人の子供を真ん中にしたのです。
すぐに分かる差別、目に見える差別は、氷山の一角にすぎません。大学のあるクラスの中にある部落差別は、わざわざアンケートを取ってみて、初めて分かったことです。部落差別というものの多くは、今や知ろうとしなければ、知ることのできない差別です。でも、確かにそこにある差別です。千年も続いてきている差別ですから、これからも何世代にもわたって、それを無くすために取り組んで行かない限り無くなることのない差別なのだと僕は思います。
今日お伝えしたことの中で言うとすれば、例えば、アンケートの結果を見て、講義に出なくなった学生さんの気持ちに寄り添おうとすることがなければ、部落差別というものは決して見えてこないでしょう。イエスはいちばん小さい子供を真ん中にすることによってしか、もっとも小さい者に寄り添うことによってしか、人が人を価値づけて祀り上げたり、貶めたりするようなことを克服することはできないんだということを示すのではないでしょうか。なぜ、その学生さんは講義に出られなくなってしまったのか。どんな気持ちだっただろうか。わたしたちの想像力を目いっぱい働かせて、わたしたち一人一人の心の真ん中に、その学生さんを立たせたいと思います。
(以上、牧師のお話の要旨)
次週は、教会の暦では聖霊降臨節第9主日。朗読する聖書箇所は新約聖書・使徒言行録26章19~23節(新共同訳新約聖書266ページ)です。牧師のお話のタイトルは「どんな暗闇の中でも」。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後は、会堂の清掃、定例役員会の予定です。ご協力お願いいたします。
報告:山田有信(牧師)