2015年9月20日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第18主日でした。

第1部の子供の礼拝では新約聖書・マタイによる福音書13章3~8節を読みました。メンバーのOさんが「いばらのなかに落ちたたね」というタイトルでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝では新約聖書・使徒言行録27章27~32節を読み、牧師から「留まるか逃げるか」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「留まるか逃げるか」

わたしたちの国は今、角を大きく曲がっています(平和主義から戦争へというよりは、民主主義・立憲主義から独裁へという感じでしょうか)。「安保法案」とか、「戦争法案」とか呼ばれる法案が国会で可決されました。これで日本は、海外へ行って武器や兵器を使って戦闘をすることが法律上できるようになると言われています。アメリカがどこかの国の誰かからテロ攻撃を受けて、「助けて欲しい」とアメリカから言われたら、日本も戦場へ行って何らかの形で戦わなければならないのだそうです。でも、この法律は突っ込みどころが多すぎます。つまりおかしなところがあまりにも多い法律なんですね。憲法と照らし合わせても、法律の内容を考えてみても、国際情勢と呼ばれるものを考えてみても、おかしなところしか見つからない法律です。こんな法律は無くても、同じことはできるとさえ言われています。でも、それなのに数の力で可決されたわけです。

木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(Amazonより)

木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(Amazonより)

いったいどうしてこんな法律が作られたんでしょうか。僕には全然分かりません。でも、木村草太さんという憲法学者と國分功一郎さんという哲学者の対談を読んで納得が行きました。これまで日本は、憲法上他の国の戦争には参加できないとされてきたんですが、今回可決された法律で参加できるんだ、海外で戦争に参加することはもう憲法に違反することじゃないんだということになった、そこが一番大きなところだと彼らは言うのです。憲法そのものは変えないけれども、憲法の読み方が変えられたわけですが、この、憲法の読み方を変えてしまったこと、そのものがこの法律を成立させる目的なんだということなんです。じゃぁ、いったい何のためにそんなことをするのか。対談ではこう語られています。「もちろん、こう考えるほかありません。すなわち、彼らは戦後の憲法体制、あるいは今の憲法そのものに対する憎悪のようなものを抱いているということです。『…とにかくイヤだ、だから変えたいんだ、何のためにとかじゃなくて、とにかく変えたいんだ』ということです」(木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』194ページ)。確かに安倍首相は以前からそうですね。憲法を変えようとしたけれどもダメで、憲法を変えやすくしようとしてもダメでした。だから憲法に反する法律をとにかく作って、憲法に反することをしちゃえということになったのかも知れません。そうだとすると、いくら「違憲だ」、憲法違反だと指摘してもあまり意味はありません。政府にとっては憲法に反しているからこそ意味があるわけですから。憲法違反だからこそやっているのだとすると、この法律のおかしな中身や、法案を可決させるために起こった無茶苦茶なことについては、なるほどという気はするんですね(もちろん法案が可決されたことは認められませんが)。自分の気に入らないルールに縛られるのは嫌だし、ルールそのものを変えることも自分の力ではできないから、とにかくそんなルールは破っちゃえということなんですね。開いた口がふさがりません。

どうしてこんなことするんでしょうね。考えたところで、僕は安倍首相ではないし、安倍首相の仲間でもないので分かりません。でも、よっぽど何かが怖いのかな、よっぽど人間というものを信用できないのかなぁという気がします。

今日の聖書箇所にも恐れを感じている人々がいます。使徒パウロは今、貨物船で地中海を漂流しています。ローマに向かう途中で遭難してしまったのです。船は浅瀬に近づいていて座礁・転覆の恐れが出て来ました。恐れを感じた船員たちは、貨物船に積まれている小舟で我先に逃げ出そうとします。ところがそれをパウロが止めさせます。確かに船員たちが逃げ出してしまったら、残されたパウロたちは助かり様がありません(小舟には全員は乗れなかったのでしょう)。結局、船員たちは貨物船に留まり、結果的に全員が助かることになります。それにしても、なぜ人々は素人のパウロの言うことをきいたのでしょう。もしかしたら、パウロは自分が助かりたい一心でそうしただけのことなのではないでしょうか。

そうではないと思います。もしパウロが、自分だけが助かればよいと思うような人だったら、そもそもパウロはこの船には乗っていなかったでしょう。なぜなら、パウロがローマに行くためにこの船に乗っているのは、ローマの人々にもイエスの福音を伝えたいと願ったからでした(使徒言行録23章11節)。自分さえ救われればよいと思っているのなら、ローマになんか行く必要はないんです。もしパウロが、自分の救いにしか関心のない人だったら、そもそもパウロはイエスと出会って、イエスの福音の伝道者になることはなかったでしょう。ユダヤ教の中にとどまって、ユダヤ人だけが神に選ばれて救われるのだということだけを信じていればよかったんです。あるいは、キリスト者となっていたとしても、エルサレムにいたキリスト者たちがそうしていたように、キリスト者も律法を守って、ユダヤ教徒にならなければ救われないんだという考えに同調していたはずです。ユダヤを出て異邦人・外国人にイエスの福音を伝えようとはしなかったはずです。

パウロはすべての人が、イエスの福音によって救われるはずだと信じていました。そこには、ユダヤ人と異邦人・外国人の区別はないんです。パウロのその考え方がパウロ自身によって端的に語られているのが、新約聖書・ガラテヤ書の3章28節です。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。パウロにとって、イエス・キリストと共に歩むということは、世界中の誰もがひとつの何かとして共に生きるということなんです。自分だけが救われたいとか、自分だけが助かりたいとか、自分の国だけとかそんなことはあり得ないことなんです。

キリスト者がイエスと共に歩もうとする者なのだとしたら、キリスト者がすることは、扉を閉じて、壁を高く固くして、自分を守ることではないでしょう。力を持つ者に頼ったり、力をちらつかせて相手を脅すことではないでしょう。むしろ、扉を大きく開いて、できるだけどんな人も受け入れて、内側から壁を壊して、壁の外へ、何も持たずに歩み出て、外側の人々共に生きること、それがキリスト者がイエスと共に歩むということなのではないでしょうか。

イエス自身は、イスラエルだけではなくむしろ世界中の人々が集まってくる「神の国」を見ました。生きている人々だけではなくて、既に死んだ人さえ集まっている「神の国」を見ました(マタイによる福音書8章11~12節)。優れた人間や、強い者だけではなくて、空の鳥や野の草でさえ養う「天の父」のいる国を見ました(ルカによる福音書12章22~34節)。そしてその「神の国」がこの地上に近づいていると言ったのです(マルコによる福音書1章15節)。「神の国」では世界の人がひとつです。生きている者も死んでいる者もひとつです。強い者も弱い者も、人間も動物も植物も、すべてがひとつです。そこでは誰もが信頼し合うほかありません。その「神の国」が、イエスが告げたように、この地上に近づいているのだとしたら、人は何を恐れる必要があるでしょう。

現実のこの世界は、もしかしたら浅瀬に乗り上げて座礁して、転覆してしまうのかも知れません。現実のこの世界は、力を持つ者だけが支配する、そんな世界になっているのかも知れません。でもそのことを恐れる必要はありません。生と死を隔てる壁さえ壊す「神の国」が今ここに近づいているからです。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は、会堂清掃をしました。皆様のご協力に感謝します。また清掃後は定例役員会を行いました。役員の皆様、ありがとうございました。

次週は、教会の暦では聖霊降臨節第19主日。朗読する聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記30章24~31節(新共同訳旧約聖書814ページ)です。牧師から、「涙」というタイトルでお話をします。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後はほっとコーヒータイムです。コーヒーやお菓子をいただきながら、礼拝の中の「平和のあいさつ」を具体的にどのようにしていくのか、一緒に考えたいと思っています。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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