2015年11月1日主日礼拝報告

大阪淡路教会墓地

大阪淡路教会墓地

教会の暦では降誕前第8主日、聖徒の日、大阪淡路教会では永眠者記念主日礼拝を献げました。

第1部の子供の礼拝では新約聖書・ルカによる福音書13章22~25節を読み、メンバーのIさんが「かぶき」というタイトルで、歌舞伎の勧進帳の一節を披露して、お話しくださいました。

第2部の礼拝では、新約聖書・使徒言行録28章1~10節を読んで、牧師から「人を生かす神」というタイトルでお話をさせていただきました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「人を生かす神」

勝手なイメージ

人は人に対して勝手なイメージを持ちます。パウロという人と同乗者が、乗っていた船を脱出してクレタ島にたどり着いたときのことです。クレタ島の人々は、難を逃れてたどり着いた一行を、神の裁きを免れて生き延びた人々だと理解したのか、歓迎して親切にもてなします。ところがパウロの腕に蝮が絡まったのを見ると、一転して殺人犯だと決めつけます。けれどもパウロが蝮を平然と払いのけ、別条ないのを見て、今度は「この人は神様だ」と言い出すのです。

人はその人として生きているだけで、周りの人が勝手なイメージを作り上げていきます。単にこの世界に生まれてきた一人の人間として、その点では誰も変わりなく生きているだけなのですが、その人自身の振る舞いや、たまたま置かれた状況によって、よく見られたり、悪く見られたり、勝手に決めつけられるのです。もちろん、人からどう見られるかということによって、自信をつけることができるということもあります。でも反対に、マイナスイメージで見られることで苦しむということもあるでしょう。

今日、わたしたちは大阪淡路教会に関わる113名の方々を記念する礼拝を神に献げています。もう亡くなられた方々ですから、その人生そのものが変わることはもうありません。でもそれでも、そのイメージはこれからも人それぞれによって異なるものでしょうし、さらにその一人一人が抱くイメージも何かの要因で変わっていくものです。

神からの眼差し

でも、そんな人間に向けられている変わることのない眼差しがあるのではないでしょうか。そしてその眼差しを向ける目には、いつも変わることのない一人の人間のまるごとのイメージが映っているのではないでしょうか。わたしたち一人一人を、一人の人間としてまるごと受け入れて、正当に評価する、そんな眼差しがあると僕は信じています。人がどう見ようと、世間がどう見ようと、この「わたし」を、ただの一人のあるがままの「あなた」として見る眼差し、長い宣教活動を続けてきたパウロを支えて来たのも、そんな眼差しではなかったかと僕は想像します。宣教活動の中で、パウロが思い上がってしまったということもあったでしょう。恐れを感じて逃げ出したということもあったでしょう。でもそんなパウロを人がどう評価しようと、変わらぬ眼差しでパウロを見つめる視線を、パウロは感じていて、それに支えられて歩んできたのではなかったでしょうか。

今日、わたしたちが記念している113名の永眠者の方々は今、人をそのように見る眼差しを向ける何者かと共にあると僕は信じます。永眠者の一人一人に対して抱く、わたしたち一人一人のイメージとはかかわりなく、その人を、あるがままのその人として見る、その眼差しに包まれているはずです。人はただ、生まれて来て、そして必ず死んで行く。神の前では、どんな人もあるがままのただ一人の「あなた」です。この地上での歩みを終えた113名の方々に向けられているであろう、その神からの眼差しを、いまだこの地上を歩む「わたし」たちも、もう一度感じなおしたいと思います。

(以上、牧師のお話の要旨)

礼拝後は、クリスマスに歌う讃美歌の練習をした後、服部緑地の教会墓地に移動して、墓前礼拝を献げました。礼拝後は、教会墓地のすぐ近くで野外食事会を催しました。お天気にもめぐまれて楽しいひと時でした。

次週は、降誕前第7主日の礼拝です。礼拝後には、教会内の劇団「天の雫」の第1回定例会。クリスマス公演に向けて活動を開始します。関心のある方、どなたでもぜひご参加ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトは reCAPTCHA と Google によって保護されていますプライバシーポリシー利用規約 申し込み。