教会の暦では降誕前第6主日でした。
第1部の子供の礼拝では新約聖書・ルカによる福音書15章31~32節を読み、メンバーのOさんが「私たちの罪」というタイトルでお話しくださいました。本当に困った時、話を聴いてもらえる相手がいるというのは実にありがたいことですね。
第2部の礼拝では、新約聖書・使徒言行録28章11~16節を読んで、牧師から「兄弟たちとの新たな出会い」というタイトルでお話をさせていただきました。
(以下、牧師のお話の要旨)
「兄弟たちとの新たな出会い」
〈信頼〉
フランスのパリで、人の手によって多くの生命が失われました。そこには、むきだしの敵意があります。やった側にも、やられた側にも、憎しみが、憎悪があります。そこに人間同士の信頼関係を見出すのは困難です。
ところで、今日の聖書個所には、そういったものとは反対の出来事が記されています。長い旅を経てパウロはようやくローマに到着します。長く宣教活動を続けてきたパウロにとっても、イタリアは初めての地です。言葉がちゃんと通じるかどうか、自分が受け入れてもらえるかどうか、パウロにはそんな不安があったはずです。でもそんな不安をよそに、パウロは初めて来たイタリアで、新たに「兄弟たち」(クリスチャン)と出会います。またローマからも出迎えの人々がやって来て、パウロは「神に感謝し、勇気づけられ」(15節)ます。初対面の外国人との間に、こんな信頼関係を結ぶことなんて本当にあるんでしょうか。
もしあるとしたら、なぜこんなことが可能になるのでしょう。同じクリスチャン同士だからということもあるのでしょうか。そうだとしたら、クリスチャンというのは一体何なのでしょうか。
〈一人のむきだしの人間同士として〉
例えば、誰が一番偉いのかを議論していた弟子たちに、「すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」とイエスは言いました。そして、子供の手を取って真ん中に立たせて、抱き上げてこう言いました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。またイエスは、当時の社会から除け者にされていた、病人や障害者、遊女や徴税人たちと食卓を共にしました。ここに共通するものは何でしょうか。それは、立派だとか一人前だとか、社会で評価される何かを、まだ身に着けていない、一人では生きてい行けない無力な子供、あるいは社会によってそういうものを奪い取られている病人、障害者、遊女、徴税人、そういう人々のことをイエスは大切にし、一人の人間として評価していたということではないでしょうか。言葉を換えて言うとしたら、むきだしの人間、ただの人間、そういう者であれということだと僕は思います。そして、社会で評価されるような何かをまったく身につけていない、何も持っていない、ただの一人の人間のあるがままの姿、それがはっきり示されているところこそ、あの十字架ではないでしょうか。
イエスは誰よりも人間であろうとした人だと思います。ただの一人の人間として、ただの一人の人間を大切にする、イエスはそのことを示しています。クリスチャン、教会の根底にあるのは、そういうイエスではないでしょうか。国籍とか、業績とか、社会的地位とか立場とか、なんらかの所属や社会が評価するような何かとは関係なく、あるがままの無力な一人の人間同士で、互いに信頼し合う、そういうことをイエスは求めているのだと僕は思います。
教会はただ、そういう無力なあるがままの人間、つまりクリスチャン同士がつながりあって形作られる場として、同じ、無力なあるがままのすべての人間を受け入れる、そういう集まりでありたいと思います。
報復は新たな憎しみを生み出します。無力な一人の人間として、恐れを貫いて信頼し合うことを学ばせてください。
(以上、牧師のお話の要旨)
礼拝後は、クリスマスに歌う讃美歌の練習をした後、会堂清掃、定例役員会を行いました。
次週は、降誕前第5主日(収穫感謝日・謝恩日)の礼拝です。礼拝後には、ほっとコーヒータイムを予定しています。茶菓をいただきながら歓談しましょう。どなたでもぜひご参加ください。