今日はクリスマス。
大阪淡路教会では前夜のクリスマス・イブ、キャンドルサービスを献げました。
クリスマスメッセージ(牧師)
もう何年も前のことですが、クリスマスの前になると教会に必ず電話をくださる方がいました。その方は、何年にもわたって、日々のしんどさや、ご自分が経験して来たつらいこと、ご家族との関係の難しさを僕に話してくれました。その方との電話は10年ほど続きましたが、ある時、ご自分が末期のガンだということを知らせてくれて、その時が最後になりました。その間、お会いしたのは一度だけでした。そんなに長く関係が続いたのはその方くらいでしたが、でもその当時は、クリスマスやお正月のころになると教会の電話はよく鳴りました。たぶんそれは、この季節が現代の多くの人にとって、嬉しいというよりは、寂しい気持ちになるものだからだと思います。「きっと君は来ない」というフレーズの歌が、もう20年、30年毎年必ずこの季節には流れて未だに売れ続けているそうですから、この季節には喜びや温かさを感じる人よりも、たぶんその反対の気持ちになる人の方がはるかに多いのではないでしょうか。他の時期よりもずっと孤独がこたえる季節なんだろうと思います。毎年、電話をくださっていた、その方の話を聞くうちに、僕はだんだんクリスマスが嫌になって行きました。「この方に、こんなに苦しい思いをさせるくらいなら、クリスマスやお正月なんて無い方がいいんじゃないか」、そう思ったんです。
今のクリスマスの起源は、古代ローマの冬至のお祭りにあると言われています。冬至は、一年の中で一番日照時間が短い日です。わたしたちが、こうして今ロウソクの小さな明かりだけを灯しているのは、この日を支配しているのが暗闇であることを象徴するものでしょう。そして、古代ローマの人々は、その暗闇の中で新しく太陽が生まれると信じて、その日を祝ったのです。
ところが、太陽にしろ、キリストにしろ、その誕生を祝うはずのクリスマスが、現代人の孤独をいっそう深めて、苦しめるものになってしまっているというのは、いったいどうしてなんでしょうか。一つには、クリスマスやお正月は、親しい人や家族と過ごすという習慣や、そうしなければならないという世の中の雰囲気、そしてそれを煽るような情報が、多くの人を苦しめるものになっているということがあるでしょう。
けれども、もう一つ別の理由があるのではないかと僕は思っています。人がその生涯の中で、もっとも人に近づき、人と共にある時間、つまり孤独というものとはもっとも離れている時期は、たぶんお母さんのお腹の中にいる時だと思います。「誕生」というのは、お母さんの身体から離れて、この世界と初めて出会うというとても喜ばしい出来事です。でもそれと同時に、もっとも人に近づいていた、お母さんに密着して母胎にあたたかく包まれていた、そんな安心から離れて、母胎に別れを告げる、人生最大の別れを経験するということでもあるのではないでしょうか。ならば、太陽の誕生、キリストの誕生を祝う、このクリスマスが、最も人に孤独を感じさせる時だということも、ある意味では自然なことなのかも知れません。
人は、お母さんから分かれて、たった一人、この世界に産み落とされます。それは、この上ない孤独を意味する出来事です。「たった一人」ということは、「独りぼっち」ということであって、この「わたし」をあれほど温かく、あれほどやさしく包んでくれたものが、もうないということなのです。でもそれと、同時に「たった一人」ということは、「あなた」の代わりは他には誰もいないということでもあります。つまり、「あなた」という、たった一度きりの人生を生きる、世界にたった一人しかいない「あなた」は「あなた」だけ、それほど貴い存在だということでもあるのです。
このろくでもない人生を生きる「わたし」は、この世界にたった一人しかいないという絶望と、このかけがえのない貴い人生を生きる「わたし」は、この世界にたった一人しかいないという驚き、そのふたつがない交ぜになって人を包むのがクリスマスというものなのかも知れません。
ロウソクが灯している、この小さな光が表わす、新しく生まれた太陽の光が、そして新しく生まれたキリストの光が、わたしたち一人一人のありのままの現実を隈なく暖かく照らしています。
(以上、牧師のお話の要旨)