2017年10月22日主日礼拝報告

教会の暦では聖霊降臨節第21主日でした(週報に記載した教会暦は間違ってました。ごめんなさい)。

淡路教会の主日礼拝は毎週子どもたちとの合同礼拝です。第1部のこどもの礼拝では新約聖書・使徒言行録4章8~12節(新共同訳新約聖書・201ページ)を読み、メンバーのOさんが「すくわれるべき名」というタイトルでお話をしてくださいました。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記42章16~17節(新共同訳旧約聖書・833ページ)を読み、牧師から「老いて死ぬこと」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

イメージ画像

「老いて死ぬこと」

ヨブという人は、自分の生命以外のものはほとんどすべて失ってしまった。財産、使用人、家畜、子どもたちと健康、それらをすべて神によって奪い取られた。その中から最も苦しみの深いものをあえて選ぶとすれば、それは何であろうか。使用人や子どもたちの死ではないだろうか。他のことは自分さえ耐えれば何とかなることである。取り戻すことも可能である。けれども、自分にとってかけがえのない相手の死、それは誰にとっても耐え難い苦しみなのではないだろうか。

ヨブ記が作られたのは古くて紀元前6世紀ごろとされている。人の死は今よりも身近なものであったはずである。幼い子どもの死も今よりもずっとありふれたことだった。しかしそれでも、例えば幼い子どもの死は親にとって特別なものであったはずである。例えば、「主の山に備えあり」で知られる、イサク奉献の物語は、そのような気持ちを前提にして成り立つものであろう。

ところが、今日の聖書箇所ではどうだろうか。ヨブの子どもたちが家畜と同列に扱われている感もある。ヨブの莫大な財産を受け継ぐためだけに子どもたちが存在しているかのように読めなくもない。ヨブ記全体を通しても、親しい者を失ったヨブの苦しみが殊更に語られることはなかった。ヨブ記の作者には、親しい者を失う悲しみや痛みが分かっていないのだろうか。「ヨブにもいろいろあったけど、孫の孫の顔まで見られたし、なんだかんだ言っても幸せな人生だったよね」とでも言いたいのか。この結末にはどうも納得が行かない。

しかし、ヨブ記を通して人の苦しみを描いて来た作者である。ヨブ記が表わしたことのひとつは、人が苦難に見舞われることの理不尽さではなかったか。作者がヨブの苦しみに寄り添っていないはずはないと思われる。作者は、淡々と物語上の事実を記すことによって、そこには表わされていないヨブの苦しみ、そして神の登場・神の言葉によっても決して癒されることのないヨブの痛みを描き出そうとしているのではないだろうか。

ヨブの長寿を作者は記す。ヨブに新たに託された娘たちの美しさを作者は記す。けれどもそれらはヨブにとって本当に幸せなことなのだろうか。そうとは思われない。この後140年とされるヨブの人生の中で、一瞬でも幸せを感じることがあったとしたら、それは、死んでいった者たちに対する罪悪感のようなものと背中合わせのものであったに違いない。ヨブ記の作者は、結末を短く記しながらも、その行間にヨブの深い悲しみを編み込んでいるように思えてならない。

長寿が幸せとは限らない。しかしそれでも人は生きる。自分の生まれた日を呪ったように(3章3節)、ヨブは「自分が生きていてよいのか」と生きる限り問い続けたのではないか。けれどもそれでもヨブは生きるほかなかった。そんな思いを抱きながらも、人は目覚めれば息をしているし、心臓も動いている。お腹も空くし、人にも会いたくなる。

苦しみあえぎ「何故か」と問うヨブに、神は「この世界を支配しているのはわたしなのだ」と応えた。神の力を誇示し、その強さを叩きつけ、ヨブはそれに圧倒されて、悔い改めるほかなかった。

生きるということは、自分自身の意志とか思いを越えたものなのだろうか。喜びでもなく、悲しみでもなく、「神の支配」のような、ままならない力の中で、人は苦しみながら生きている、そのような現実をヨブ記は語る。

(以上、牧師のお話の要旨)

次週10月29日(日)は降誕前第9主日です。聖書個所は新約聖書・マルコによる福音書10章23~31節(新共同訳新約聖書82ページ)です。讃美歌は、『改訂版こどもさんびか』から137と63番、『讃美歌21』から231と215です。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は「ほっとコーヒータイム」を予定しています。今回は特にテーマなどを設けていません。自由におしゃべりできればと思います。どなたでもぜひご参加ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトは reCAPTCHA と Google によって保護されていますプライバシーポリシー利用規約 申し込み。