2017年10月29日主日礼拝報告

教会の暦では降誕前第9主日でした。

淡路教会の主日礼拝は毎週子どもたちとの合同礼拝です。第1部のこどもの礼拝では新約聖書・ルカによる福音書16章19~26節(新共同訳新約聖書・141ページ)を読み、牧師から「ハロウィーン」というタイトルでお話をしました。

第2部の礼拝では、新約聖書・マルコによる福音書10章23~31節(新共同訳新約聖書・82ページ)を読み、牧師から「財産と神の国」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要旨)

「財産と神の国」

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「自分の生命の次に大事なものは何ですか」。そう聞かれたとしたら、多くの人が家族など自分の親しい相手、かけがえのない相手を挙げるのではないだろうか。大切な相手を人質に取られたら、ほとんどの人は逆らえない。ところが今日の聖書個所で、イエスは「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者」が救いを手に入れることができるかのようなことを言っている。これはいったいどういうことなのだろう。

今日の聖書個所の物語の前段部を通してわたしたちが確かめたのは、本当に必要なもの以外は、貧しい人々に差し出して分かち合うこと、そして共に生きるべきであること、そのように生きることこそが、イエスの語る「神の国」なのではないかということであった。「永遠の生命」を願う金持に、イエスは分かち合って共に生きることを奨めたのだが、金持は失意のうちに去って行った。他人の為には自分の財産からびた一文出したくなかったということだろう。物語がここで終われば、金持が救われるのは難しいという話で終わりである。だが物語はさらに続く。

今日の物語の中で少なくともペトロは、自分だけは救われるはずだと考えている。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」という言葉にペトロの自負のようなものが滲み出ている。だが、それに対してイエスは言う。「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。これは一見すると、家族や家・財産を捨てイエスに従えば、永遠の命を手に入れ、家族や家・財産を百倍に増やすこともできるということのように思ってしまう。しかしそうではない。イエスが言いたいのは、ペトロのように「何もかも」捨ててイエスに従ったと思っている者は他にもいて、「だれでも」皆がそれにふさわしい報い、つまり「永遠の命」を受けるのだと言っているのである。結局のところ、ペトロのような者が考える「永遠の生命」などたいしたものではないということだろう。

金持やペトロが求めたのは「永遠の生命」だったが、イエスが大切にしているのは「神の国」である。「神の国」それは、生きている者も死んでいる者も、同胞も異邦人も、男も女も、老いも若きも、すべての者を神が招いて催される、飲み食いの場、祝宴なのである。イエスは、金持が「神の国」に入ることは「らくだが針の穴を通る」よりもはるかに難しいとした。それはペトロにとっても同様なのだ。金持とペトロが求めた「永遠の生命」などではなく、「神の国」こそもっとも重要なことだとイエスは考えた。

「神の国」は「わたし」が求めても手繰り寄せることはできない。たとえすべてを捨てたとしても(金持はそれができず、ペトロはそうできたと自負したが)、それは手に入れられるものではない。だからわたしたちはある意味では安心してもよいのではないだろうか。すべてを、いや一部さえ捨てることもできない「わたし」だけれども、そもそも「神の国」は「わたし」の力で手に入れることはできないのだ。そしてわたしたちは、喜びを新しくしてもよいのかもしれない。それほどの「神の国」が「近づいた」とイエスは宣言したのだから。誰もが支え合って共に生きる世界に「わたし」たちはいま招かれているというわけだ。「わたし」がたとえ何もできなくても、「神の国」が目の前に浮かび上がって来るようだ。

(以上、牧師のお話の要旨)

次週11月5日(日)は降誕前第8主日です。永眠者記念礼拝です。聖書個所は旧約聖書・ヨブ記3章1~10節(新共同訳旧約聖書777ページ)です。讃美歌は、『改訂版こどもさんびか』から10と119番、『讃美歌21』から575と579です。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は服部霊園の教会墓地へ移動して墓前礼拝です。礼拝後には野外食事会を予定しています。どなたでもぜひご参加ください。

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