2017年12月3日主日礼拝報告

教会の暦ではアドベントに入りました。

淡路教会の主日礼拝は毎週子どもたちとの合同礼拝です。第1部のこどもの礼拝では新約聖書・ルカによる福音書2章8~15節(新共同訳旧約聖書・103ページ)を読み、牧師から「クリスマス・イブ」というタイトルでお話しました。

第2部の礼拝では、新約聖書・マルコによる福音書10章41~45節(新共同訳新約聖書・82ページ)を読み、牧師から「妬みといらだち」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師の話の要旨)

「妬みといらだち」

イエスと共に行動していた人々の中の10人が怒り出している。ヤコブとヨハネという二人が、イエスが栄光の座に着くときに、自分たちをイエスに次ぐ地位に就けて欲しいと願ったからだ。しかしよくよく読んでみるとよく分からない。イエスは二人にその座を約束したわけではなく、むしろ断っている。そもそもこの12人はなぜそんな地位を求め始めたのか。一連の物語の中で、イエスはそんなことは言っていないのに。イエスが語っているのは、今エルサレムへ向かっている自分が、やがて捕らえられ、虐げられて、処刑されるということだ。イエスのエルサレム行きを止めさせようとするなら分かるが、特別な地位を求めるというのは理解できない。「復活する」というイエスの言葉に対する過剰反応として描かれているのだろうか。それとも、イエスの同行者たちはちっとも分かっていないということを著者は強調したいのか。いずれにしても、みっともない。けれども12人のもっとも愚かなところは、自分たちが特別な地位を手に入れることができると、そろいもそろって皆信じているところだろう。

自分以外の人が何かを手に入れることのすべてが、すべて妬みの対象になるわけではない。自分なら当然手に入れることができるはずだ、あるいはどうしても手に入れたいと願っている何かが、自分の手から滑り落ちて、誰かほかの人のものになるような、そんなときに人は嫉妬という感情を抱くのだろう。どこかの誰かがどんなに価値のある何かを手に入れたとしても、そのことが必ずしも強い嫉妬にはつながらない。けれども、近くの誰か、親しい誰かがそうであるときには、外野からの評価ではたいした価値ではない何かであったとしても、破壊的な嫉妬心につながることもある。つまり妬みの強さは、手にいれたい、手に入って当然と思う何かと自分との距離と、それを実際に手に入れる自分ではない誰かと自分との関係によって決まるのだろう。

妬みの感情そのものが悪いわけではない。イエスは特別な地位を求めることも、妬んで怒り出すことも、それ自体を責めてはいない。自分と人を比べることも否定したりはしないはずだ。ここでイエスが求めているのは、すべての人に仕えること。イエス自身が仕えるために来たように、12人にもそうすることを求めている。加えてイエスは「自分の命を献げるために来た」(45節)と言っているが、イエスが死ぬためにこの世に来たとは思わない。生前のイエスがしていた癒しと共食の営み、イエスの言う「仕える」とはそういうことなのではないだろうか。

妬みという感情を消すことはできない。どうして「わたし」ではなく「あの人」なのかと、心はどうしてもざわつく。自分の気持ちを認めて、そんな自分自身を受け止めながら、なお他者に仕えることを模索し試みる、そんなことを求められているのではないだろうか。

(以上、牧師の話の要旨)

次週12月10日(日)はアドベント第2主日です。聖書個所は旧約聖書・ルツ記1章7~13節(新共同訳旧約聖書421ページ)です。讃美歌は、『改訂版こどもさんびか』から63と132番、『讃美歌21』から175と120です。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は讃美歌練習、劇団「天の雫」の定例会(クリスマス愛餐会公演の準備)を予定しています。

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