教会の暦では収穫感謝の日でした。今週で教会の一年は終わりです。来週からアドベントに入ります。
淡路教会の主日礼拝は毎週子どもたちとの合同礼拝です。第1部のこどもの礼拝では新約聖書・マタイによる福音書2章9~12節(新共同訳旧約聖書・2ページ)を読み、牧師から「賢者のおくりもの」というタイトルでお話しました。
第2部の礼拝では、新約聖書・マルコによる福音書10章35~40節(新共同訳新約聖書・82ページ)を読み、牧師から「願い」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師の話の要旨)
「願い」
イソップ物語の「北風と太陽」にイエスをあてはめるとしたら、イエスは北風でもなく、太陽でもなく、旅人ということになるだろうか。北風も太陽も、結局は相手を支配したいと願っている。両者とも、どうにかして旅人のマントを脱がせようとするのだが、イエスはそんなことはしないのではないだろうか。イエスはそのような支配は望まない。むしろ、北風に吹かれようと太陽に照らされようと、最後までマントを脱ごうとはせずそのまま倒れてしまうか、あるいはマントなどすぐに脱いでしまう、そんな旅人こそイエスはふさわしいのではと思う。
イエスという人は、病に伏せっている人に近づいてその病をいやした。足が不自由なために立つことのできない人に近づいてその足をいやした。だがそれは、病を患うことが悪しきことだからではない。足が不自由なことが忌まわしきことだからではない。イエスがしたのは、病を患うことが罪の表れであるとすることや足が不自由なことが罪の結果であるとすることから、その人を解放することではなかったか。そういう価値を人に植え付けて人を支配しようとする掟や、その掟を利用して実際に人を支配している人々から、その人を解放するためではなかったか。人を支配する掟そのものや、掟を利用して人を支配する人々から自由であることを、イエスは身をもって示したのだ。誰も何かに支配される必要などないし、誰も誰かを支配する必要などない。「あなた」は「あなた」でよいのだとイエスは示した。病に侵されていることがダメなことではないし、立ち上がれないことがダメなことではないとイエスは示した。そんなイエスにとって、やがて自らが味わわなければならないであろう「杯」や「洗礼」、つまり苦難も、決してイエスのすべてをダメにしてしまうものではなかったのかもしれない。どのような力も人を支配することはできないのだ。
ところが弟子のヤコブとヨハネは、他の弟子たちを出し抜いて、自分たちだけが人を支配する力を手に入れたいとイエスに願っている。人を支配する力を手放して、解放されて、苦難を受け入れる道を進もうとしているイエスにとって、この二人の弟子たちが、よりによってイエスにそれを求めていることは、お門違いも甚だしいというか、いったい何を考えているのかということだろう。
力に屈して十字架への道を歩み、そして十字架につけられているイエスと出会った「わたし」たちは、人を支配することからも、人から支配されることからも解放されている。どんな力も、どんな掟も、「わたし」たち一人一人を、そのわずかな部分でさえ、支配したり、損ねたりすることはできないのだ。「あなたはダメだ」などと決めつけることは誰にもできない。
それにもかかわらず、「わたし」たちは力を求め、支配を欲する。確かに、人に対して優劣をつけることは可能だ。何かの基準でもって人をはかり、イイとか悪いとか、素晴らしいとかダメだとか決めつけてしまう。しかし、そんな「わたし」たちに対して、北風や太陽に対しても、「そんなバカげたことはおやめなさい」とイエスは言っているのではないだろうか。
(以上、牧師の話の要旨)
次週12月3日(日)はアドベント第1主日です。聖書個所は新約聖書・マルコによる福音書10章41~45節(新共同訳旧約聖書82ページ)です。讃美歌は、『改訂版こどもさんびか』から64と106番、『讃美歌21』から240と452です。どなたでもぜひご参加ください。
礼拝後は讃美歌練習、クリスマス訪問を予定しています。