毎週日曜日に、教会は礼拝を献げ続けています。なぜ日曜日なんでしょうか。それは、キリストが復活したのが日曜日だからです。教会は日曜日にキリストの復活を記念し、その喜びを分かち合い、その喜びを告げる生活に戻って行きます。教会はそれをひたすら繰り返します。
イエスはもうこの世界にはいません。死には人を世界から切り離す力があります。それなのに、教会はどうして復活なんて信じるんでしょうか。この世界に満ち溢れている苦しみから目を背け、ありもしない楽園のような世界を生きるためでしょうか。
違います。教会が復活を信じるのは、イエスが愛を行ったからです。社会から切り離され、疎んじられ、虐げられていた人々と、イエスは共に生きたからです。イエスのその生き様に教会は人を生かす愛を知るのです。
ところが、愛を行ったイエスは、その愛のゆえに死に追いやられました。人々を社会から切り離し、人々を虐げることで、自分を生かそうとする者たちが、イエスを死に追いやりました。死によってイエスをこの世界から切り離したのです。
人は成功しました。自分さえよければよいとする者にとって、この上なく邪魔な存在・イエスを、この世界から切り離すことに成功しました。でも、イエスの生き様を、イエスが行った愛を、消し去ることはできません。イエスのように、虐げられている人の友となり、苦しむ人を力づけ、倒れた人を立ち上がらせる、そんな愛を滅ぼすことはできません。
イエスは今も生きています。イエスは今日も愛を行っています。イエスは明日も愛を行い続けます。イエスと共に、人と人の間に愛を紡ぎ出すその場に、イエスは今も生きています。
わたしたちは今日も愛を行います。なぜなら、イエスは愛を行ったからです。死さえそれを阻むことはできません。人と人の間に愛を紡ぐことが人を生かすただひとつの生命だからです。
吹いてくる風がわたしたちの背中を押してくれています。イエスのように愛を行うために、それぞれの場所に戻って行きます。
以上、イースターメッセージ
しばらくの間は礼拝への参加を控えていただくようにお願いしています。イースター礼拝は、数人の電話礼拝として献げました。電話礼拝への参加方法は現在非公開です。申し訳ありません。