15日の礼拝では、新約聖書の使徒言行録13章42~52節の言葉を読んでいただいて、みんなでそれを聴いて、その意味を分かち合いました。牧師からは「手放せないもの」というタイトルでお話をさせていただきました。
物語の舞台になっているのはピシディア州のアンティオキアという所です。ここのユダヤ教徒たちは、パウロが伝えたであろうイエスの出来事に一度は心を動かされています。でも彼らは、結局はパウロたちを迫害して追い出してしまいます。なぜなんでしょうか。彼らは「群衆」がパウロを支持するのを見て、恐れを感じたのでしょう。一度はパウロの言葉に感銘を受けていたのに、「群衆」を見て(45節)妬むようになるんです。パウロの語ったことの中身より自分たちの今の生活が大事なんですね。
イエスという男と仲間たちは、当時の社会から邪魔者扱いされていた人々に近づいて交流を深めました。それは、邪魔者(「罪人」とも言う)を作り出して社会を成り立たせていた人々に、その現実をはっきりと示すものでした。アンティオキアのユダヤ人たちも、イエスのそんな活動の内容にこそ感銘を受けたはずです。でもいざ実際にそのことに心動かされる人々が大勢いるのを目の当たりにすると、彼らは恐れます。神に示される現実よりも、自分の今の現実を優先させるのでしょう。
イエスが示したのは、イエスの神が人に対してそうであるように、一人のかけがえのない「わたし」が大切にされるべきだということだと思います。でも、そのことは、邪魔者を作り出すことによって成り立っていた社会を根幹から揺るがすものでした。そして、同じことがアンティオキアという遠く離れた10年以上後の場所でも再び起こっているのです。イエスが示した神の現実に心惹かれながらも、でも人の現実はそれを拒んでしまいます。
わたしたちはどうでしょうか。一人の「わたし」を大切にする神の現実を喜んで、神と人が共に生きる世界を目指すのか、それとも、一人の「わたし」を邪魔者扱いするような力によって成り立つ世界を目指すのでしょうか。わたしたちは、その両方の現実を同時に生きているのかも知れません。聖書の物語を通して、イエスが示した出来事に繰り返し聴きながら考え続けたいと思います。
礼拝後には、メンバー3人の方と一緒に、扇町教会の献堂式に参加しました。扇町教会の皆様、おめでとうございます。
画像は、会堂の入口から言うと一番奥にあるステンドグラスです。「地の塩」を描いたものだと伺っています。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである(『新共同訳聖書』新約聖書マタイによる福音書5章13節から引用)。