9月22日の主日礼拝は「主の食卓礼拝」でした。今回はメンバーのOさんがパンとスープを用意してくださいました(パンをとる方の腕の向こうに見えているのがスープです)。ごちそうさまでした。
「主の食卓礼拝」では礼拝の中で参加者が一緒に食事をします。もちろん参加するかしないかは礼拝参加者の自由です。
「イエスさまは、『仲良くしてはいけない』と言われていた人たちを食事に招いて、いっしょにごはんを食べました。だから、わたしたちも人を分け隔てすることなく、みんなで食卓を囲んで、いっしょにごはんを食べましょう」(大阪淡路教会では「主の食卓礼拝」を始めるときにこのように言って始めています)。
「主の食卓礼拝」は年に4~5回行います。
「主の食卓礼拝」に先立って、旧約聖書のヨブ記14章7節~22節を読んで、牧師からは「『わたし』を尋ねる神」というタイトルでお話をさせていただきました。
22節にある「魂」という言葉は、顎や喉を示すこともあります。聖書には、神が息を吹き込むことによって人間が生命を与えられたという記述がありますが、そのことによって人間は「生きる者(魂)」(新共同訳旧約聖書・創世記2章7節)となるとされています。ここで「魂」は息を吹き込む神の喉とつながる所です。今のわたしたちとは違って、喉のあたりと「魂」が関係あるものとして考えられているということだと思います。ヨブ記に記された物語の中で、ヨブは「彼はひとり、その肉の痛みに耐え/魂の嘆きを忍ぶだけだ」(新共同訳旧約聖書22節)と嘆いています。ヨブは今苦しみの中にひとり置かれているのです。「魂(喉のあたり)」が神や人とつながっていない感覚があるということなのではないでしょうか。今日は「主の食卓礼拝」です。「魂(喉のあたり)」を使って、一緒に食卓を囲んで、備えられた一つのものを食べて、わたしたち一人一人が神と人とつながっていて、その交流の中で力づけられて、生かされていることを確かめられたらいいなぁと思います。
また午後には、服部緑地にある教会墓地で、1月に永眠されたTさんの埋葬式を行いました。
次週の主日礼拝は9月29日(日)午前10:30~11:45。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録14章1~7節です。牧師のお話のタイトルは「悪意」です。
報告:山田有信(牧師)