画像は礼拝のためにメンバーのMさんが生けてくださったお花です。ありがとうございました。それにしても、撮影が下手すぎる。申し訳ありません。
9月29日の主日礼拝では新約聖書の使徒言行録14章1~7節を読みました。牧師からは「悪意」というタイトルでお話をさせていただきました。
イコニオンという町のユダヤ教徒の中に、町に宣教のためにやってきたパウロ一行を迫害する人々のいたことが記されています。彼らは町の人々に「悪意を抱かせて」(2節)パウロ一行に石を投げさせたのです。「悪意」とはなんでしょうか。「いじめ」とは「悪意」の込められたものだと定義する方がいます(「悪意」がないものは「いじめ」ではないということ)。でもその方は「悪意」そのものを必ずしも否定的に考えているわけではありません。人を傷つけてでも自分が生きようとするための意欲の根底に「悪意」があると言うのです。だから、「いじめ」はただ根絶すべきものだと考えるのではなくて、その根底にある「悪意」がどのようにして生まれてきて、どのような「いじめ」として、なぜ「いじめ」となったのかというようなことを、具体的に考えなければならならないと言うのです。子供の心に寄り添って、子供のことをよく知ることが「いじめ」の防止につながるとそうです(清水賢二『いじめの深層を科学する』ミネルヴァ書房を読んで、わたしが受け取った主な内容です)。パウロ一行に石を投げたことはもちろん許されることではありません。でも、イコニオンのユダヤ教徒たちにしてみれば、自分たちが大事にしている教えや伝統がないがしろにされるかのような思いに耐えられなかったのかも知れません(そもそもこの証言がキリスト教側からのものだということも考えなければなりません)。誰かが何かに苦しんでいるとき、もし他の誰もそのことを知らなかったり、知ろうとする人もいなかったとしたら、そのことに耐えられる人はいるでしょうか。そのことが「悪意」を加速させて、「いじめ」や迫害のようなことにつながっていってしまうのではないでしょうか。イエスは、人が互いに尊重し合って、共に生きることを大切にしました。そのために、様々な垣根を越えて人と交流し、相手のことを知ろうとしたのだと思います。
礼拝後は、映画『ナザレのイエス』のDVDの一部を鑑賞しました。1977年の作品です。今回が2回目で、「イエスの誕生」から「ナザレの村」までのチャプターを見ました。今回の部分では、ルカによる福音書に出てくる、誕生したばかりのイエスと羊飼いたちが出会う場面で、羊飼いたちが疎まれている様子が印象に残りました。
次週の主日礼拝は10月6日(日)午前10:30~11:45。「世界聖餐日・世界宣教の日」です。礼拝の中で聖餐式(パンとぶどう酒orぶどうジュースを分かち合います)を行います。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記15章1~6節です。牧師のお話のタイトルは「聞くに堪えない言葉」です。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)