画像は礼拝で使っている『讃美歌21』の252番「羊はねむれり」。12月24日に予定している、クリスマス・イブの賛美礼拝で歌うために、メンバーのNさんにリードしていただいて有志の方が毎週礼拝後に練習中です。どなたでも参加できます。
10月13日の主日礼拝では新約聖書の使徒言行録14章8~18節を読みました。牧師からは「生ける神に立ち返れ」というタイトルでお話をしました。
「奇跡」とは何でしょうか。通常あり得ないような、幸いなことが起こったという意味の言葉であれば、別に構わないのですが、この言葉はそれ以上の意味を持つようになって、人をそれに従わせようとする力に変わってしまう危険性を持っているように思います。聖書は、パウロが足の不自由な男と出会って、その結果、男が立ち上がって歩くようになるという出来事を物語っています。それだけであれば、それは素晴らしいことなのかも知れません。この出来事を「奇跡」と呼んでもよいでしょう。ところが、その出来事を知った人々は熱狂し始めてしまいます。パウロに神の姿を見て礼拝しようとするのです。どうしてでしょう。それは、人々が自分たちもその力に肖りたいと願うからです。結局のところ、人々が求めているのはパウロ自身ではなくて、男を癒した〈力〉なんです。こうなってしまうと、足の不自由な男とパウロとの間に起こった小さな出来事はもうどうでもよいものになってしまいます。驚くべき出来事が起きて、人々がその出来事に熱狂し、出来事の結果をもたらした〈力〉だけを求めるようになると、人と人との間に起こる出来事そのものや、出来事の中に生きている人自身は置き去りにされてしまうのです。目的は〈力〉を手に入れることだけです。驚くべき事を引き起こす〈力〉を人の都合で利用できるということになって行きます。そしてさらに、その〈力〉を手に入れるために人同士が争うようにさえなってしまいます。これが「奇跡」という言葉の背後にある大きな危険性だと僕は思います。それに対してパウロは「生ける神に立ち帰るように、…福音を告げ知らせているのです」(15節)と人々に訴えます。「生ける神」とは、人が利用できるような力を、人の都合によってもたらしてくれるような神ではないでしょう。人に寄り添い、人と人との間に起こる出来事に眼差しを向け、その出来事を大切にする、〈力〉から遠く離れた、そんな存在ではないかと僕は思います。
次週の主日礼拝は10月20日(日)午前10:30~11:45です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録14章19~28節です。牧師のお話のタイトルは「苦しみの果てに」です。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)