これはメンバーのMさんが礼拝で献げてくださったお花です。礼拝はこの他多くの方の働きによって支えられています。司会当番の方、礼拝当番(聖書朗読、他さまざまな用事をしていただきます)の方、奏楽の方、献げられた献金の処理をしてくださる方などなどの見える働き、見えない働きなしに礼拝は行えません。そして、もちろん、礼拝に集ってくださる方一人一人の参加によって礼拝は成り立っています。
大阪淡路教会の礼拝の前半部分は子供たちとの合同礼拝です(礼拝全体がそうなることもあります)。この日は子供向けのメッセージ(説教・お話)も牧師が担当して、ノアの洪水物語のお話をしました。物語の中で、洪水を起こしたのは神さまですが、神さま自身そのことを反省しているようです。物語には出てきませんが、地上に横たわる夥しい数の遺体を見て、心を動かされたのでしょうか。そういう神さまの姿を見ると少しホッとさせられます。
10月20日の主日礼拝では新約聖書の使徒言行録14章19~28節を読みました。牧師からは「苦しみの果てに」というタイトルでお話をしました。
使徒パウロは、その宣教活動のため訪れた先々で迫害に遭っていたことを聖書は記しています。ところがパウロ一行は、その迫害を逃れようとはせずに、わざわざ迫害に遭った町々を通って帰って行きます。そして、町々で迫害に遭っているであろう人々を励まし、苦しみの中に留まるように勧めています(22節)。使徒言行録の著者もまた、数々の迫害に遭ったのにもかかわらず、パウロたちの宣教旅行全体を「神の恵みにゆだねられて送り出されたもの」(26節)と記します。なぜなのでしょう。人を苦しめるものには、人によるものと、そうでないものがあって、前者の方が人をより苦しめるものであるように思います。また、後者はどうすることもできな部分がありますが、前者は人との関わりの中で解消して行く他ないものだと思います。パウロが迫害に遭っている人々を励ますのは、人によって生みだされる他者の苦しみは、その当事者同士が向き合って無くしていく他ないし、そうすることができるということを示すためではないでしょうか(もちろん、解消の望めない場合もあるでしょう。その時は苦しみからとりあえず逃れることを考えるべきでしょう)。苦しめる者と苦しむ者が、そのことに向き合って、共に生きて行くことができればと思います。
教会のキッチンをリフォームすることになりました。画像のスケッチのようになる予定です。でもそのためには、キッチンのある部屋をかなり整理しなければなりません。大きめの棚ひとつ分のものを、処分したり、他に振り分けて収納する必要があります。かなり大変ですが、まぁなんとかなるでしょう。11月中には完成する予定です。
次週の主日礼拝は10月27日(日)午前10:30~11:45です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記15章7~10節です。牧師のお話のタイトルは「神の苦しみと共に」。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)