2013年11月10日主日礼拝報告

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永眠者の写真など

永眠者記念主日礼拝でした。大阪淡路教会に関係する永眠者を記念する礼拝を献げました。大阪淡路教会に関係する永眠者の方は、淡路教会を生む母胎のような教会・旧梅田基督教会の関係者を含め110名です。その中で写真のある方々の写真を、画像のように展示して礼拝をします。

11月10日の主日礼拝の子供礼拝メッセージは、牧師が担当しました。ノアの洪水物語の後日談のようなお話をしました。聖書箇所は創世記9章18~29節、「ノアとむすこたち」というタイトルでお話しました。あの義人ノアが酔っぱらって裸で寝ているところを、息子のハムが見てしまい、そのことでノアが呪いの言葉を発しますが、呪いの相手がハムじゃなくて、その子供(ノアの孫)のカナンであったという酷いお話です。でも物語は誰についても善悪を判断していません。読み手が考える他ありません。

礼拝の中でヨブ記15章11~16節を読みました。牧師からは「人はみな罪人なのか」というタイトルでお話をしました。

教会に関わる永眠者を記念することは、教会の歴史を感じ取り、「聖徒(神の弟子)」としての信仰者たちを数え上げるという側面を持っています。でもこの「記念」という行為は、目に見えないところで、まったく別の出来事によって支えられている営みでもあります。

聖書箇所はヨブの友人エリファズの語る言葉です。すべてを失い、病に苦しむヨブに対してエリファズは、人がみな罪人であり、悔い改めて、神に従い、神に赦しを請うて生きる他ないと言いたいのです。エリファズの言葉は、ヨブの苦しみや気持ちに寄り添うようなものではまったくありません。ですから、ヨブはエリファズの主張に徹底的に抗い続けることになります(物語上、確かにヨブには非はありません)。ヨブはエリファズに「お前に俺の何が分かる」と言いたいんじゃないでしょうか。そう言われたら、誰も相手のすべては分かりません。でも分からないからで終わっていては、相手に寄り添うことはできないでしょう。寄り添うためには、相手のことを知りたいという強い意志が必要です。

教会で関係する永眠者の方を記念する営みの中には、永眠者の方々一人一人に対する参加者一人一人の思い、意志があります。永眠者の一人一人が、わたしたち一人一人にとって、かけがえのない相手、「わたし」にとってのたった一人の「あなた」でなければならなかった存在です。永眠者記念は、その「あなた」との別れという苦しみを苦しみ直して、そして神がわたしたちのその営みと共にあることを確かめる、そういう営みなんだと思います。わたしたちが永眠者を記念することは、一人一人の「わたし」が意志をもって、永眠者との交流を新しく経験し直して、この「わたし」がここからまた新しく生き直し始めることです。

教会墓地埋葬者記念礼拝

礼拝後は、服部霊園にある教会墓地に移動して墓前礼拝を行う予定だんたんですが、前日から悪天候が予想されていたのでそれを中止して、会堂内で「教会墓地埋葬者記念礼拝」を献げました。その前には、皆さんが持ち寄った食べ物を皆で分かち合いましたが、時間が限られていたので、少々慌ただしい食事になってしまいました。

次週の主日礼拝は11月17日(日)午前10:30~11:45です。降誕前第6主日礼拝です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録15章22~29節です。牧師のお話のタイトルは「手紙」。どなたでもぜひご参加ください。

礼拝後は、クリスマス・イブのキャンドル・サービス(礼拝)に備えて有志の方が讃美歌練習をします。その後、会堂の清掃をして、定例役員会を行います。

 

報告:山田有信(牧師)

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