降誕節第3主日の主日礼拝でした。画像は大阪淡路教会の週報の表紙です。週報というのは礼拝順序やお知らせを載せた週刊の教会発行物です(他に月報「やさしい光」という発行物もあります)。淡路教会では季節ごとに用紙の色(4色)を変えて印刷しています。子供の礼拝ではメンバーのOさんが「わたしのたいせつなひと」というタイトルでお話をしてくださいました。聖書の箇所は旧約聖書・サムエル記上1章21~28節でした。
礼拝の中で旧約聖書・ヨブ記16章18~17章5節を読みました。牧師からは「神に向かう涙」というタイトルでお話をしました。
旧約聖書の「ヨブ記」の主人公ヨブは、物語の中でとても厳しい苦難の中に置かれます。家族と財産を失い、皮膚病を患って、皮膚が崩れ、かゆみに襲われます。そしてそこにさらに苦しみが加えられます。なぜ自分がこんなにも苦しい目に遭わなければならないのかをヨブが問いかけても神は何も応えません。ヨブの友人たちは、ヨブの気持ちを知ろうとはせずに、ヨブが何か良くないことをしたから苦難に遭っているんだという考えを繰り返しヨブに押し付けてきます。そんな苦しみの極みに置かれているヨブは、ここ(18節)で自分の流した血が自分の苦しみを叫び続けると言っています。けれどもその血もやがて何かに覆われてしまいます。だから、それを「覆うな」とヨブは言うわけです。
自分の思いを人に伝える、自分の思いが人に伝わるということは簡単に起こることではありません。「どうしてこの思いが伝わらないんだろう」と苦しむことが誰にでもあるのではないでしょうか。言葉はすべてを伝えきれません。言葉は様々な状況から影響を受けます。書かない言葉はすぐに消えてしまいます。書いた言葉も書き換えられてしまったり、消されてしまうこともありま(大地に落ちた血が土や埃に覆われてしまうように)。想いを伝える、想いが伝わるためには、言葉とは違う何かが必要なんじゃないでしょうか。言葉とは異なる何かが、人を結びつけて初めて、人は心を通わせることができるんじゃないか、僕はよくそんな風に考えます。
20節を見るとヨブは「執り成す」者を求めています。これは今までにはなかった、ヨブの新しい要求です。神に問いかけても応えない、友人たちとは心が通い合わない、そんな孤独の極みを味わっているヨブは、神と自分の間を裁く別の存在を求め始めているんです。それがどんなことをする、誰のことなのか、よくは分かりません。でもそこに、あのイエスの姿を垣間見ることを「わたし」たちは許されるんじゃないでしょうか。イエスは、問いかけても応えない神、人間から遠く隔たった神という存在が、人間の側に近づいて来ていると宣言して、イエス自身も社会から遠ざけられていた苦しむ人々に近づいて行きました。ヨブはきっとここで、イエスのような人を、「執り成す」者として求めているんだと思います。
人の想いに近づくために、真実に近づくために、「わたし」たちは、自分のすべてを傾けて、それを伝えようとする相手に近づく必要があります。言葉の上っ面だけを見るんじゃなくて、自分に都合の良いように相手の言葉を捻じ曲げるんじゃなくて、言葉だけに囚われるんじゃなくて、相手の想いを問い続けたいと思います。ヨブが神に向かって流す涙は、そのことを「わたし」たちに訴えていると思います。
礼拝後は、ギデオン協会(無料の聖書を頒布するなどの伝道活動を行う団体)のNさんのお話をうかがい、協会の活動のための献金を募りました。みなさんから15,700円の献金をいただきました。ご協力ありがとうございました。その後は1月の定例役員会を行いました。
次週の主日礼拝は1月19日(日)午前10:30~11:45。降誕節第4主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録16章16~24節です。牧師のお話のタイトルは「霊からの解放」。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後は会堂のお掃除。可能な方はお手伝いください。
報告:山田有信(牧師)