降誕節第4主日の主日礼拝でした。画像はメンバーのMさんが献げてくださったお花です。子供の礼拝では牧師が「アブラハムとファラオ」というタイトルでお話をしました。聖書の箇所は旧約聖書・創世記12章11~20節でした。アブラハムという人が、エジプトのファラオをだまして、連れ合いのサライを利用して、まんまと財産を増やすことに成功するという、なんとも言えない物語でした。
礼拝の中で新約聖書・使徒言行録16章16~24節を読みました。牧師からは「霊からの解放」というタイトルでお話をしました。
聖書箇所は「霊に取りつかれている女奴隷」です。この記事からはいろいろなことを受け取ることができます。霊を女から追い出すイエスの名の力、外国の地で宣教活動を続ける使徒たちの労苦、「女奴隷」を搾取する主人たちのあくどさ、ローマ帝国の理不尽さなどなどです。でも、やはり一番に注目したいのは「女奴隷」に起こっている出来事です。この記事は、神の視線がそこにこそ向かっているという証言だと思うんです。
この「女奴隷」はとても苦しんでいたんだと思います。「主人たち」の利益のために占いをせざるを得ません。推測にすぎませんが、占いの霊に取りつかれたから占いをさせられていたというよりも、過酷な労働によって精神的に不安定になっていたということなのではないでしょうか。彼女は町にやってきたパウロたち一向に助けを求めます。けれども、パウロたちは彼女にまともに向き合おうとはしません。でも、結果的に彼女は救われます。これは、誰も向き合うものがいなくても、神は見ているという、著者ルカの証言だと思います。
この「女奴隷」はその後どうなったのでしょうか。「主人たち」に利益をもたらしていたのですから、それなりの待遇を受けていたと想像されます。でも霊から解放されて、それも失ったはずです。でも、彼女の消息について著者は無関心です。これは、誰もが束縛ではなく解放されるべきであって、解放された者は自分の意志で、誰とどういう関係を築き、どこでどう生きるのかを自分自身で決めるべきだという、著者ルカのメッセージではないでしょうか。イエスが信じた神、そして「わたし」たちが信じる神は、たとえこの女性がその後苦しむことになるとしても、それでも奴隷の身分から解放されて、自分が持っている力で、人との関係を作って、その場所でキリストの証人として生きて行くことを望む、そんな神です。
礼拝後は、会堂の清掃をしました。ご協力ありがとうございました。
次週の主日礼拝は1月26日(日)午前10:30~11:45。主の食卓例です。礼拝の中で食卓を共にします(明日のメニューはメンバーのOさんが作ってくださった「おでん」です)。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記17章6~16節です。牧師のお話のタイトルは「望みは塵の上に」。礼拝後には、「ほっとコーヒータイム」を開催。キリスト教葬儀社の方から、葬儀と埋葬についてお話をうかがいます。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)