降誕節第5主日。「主の食卓礼拝」を献げました。「主の食卓礼拝」は、イエスが人を分け隔てせず食卓を囲んだことを記念して、年に4回ほど行っている、参加者が一緒に食卓を囲む礼拝です。画像は主にメンバーのOさんが準備してくださった、今回のメニュー「おでん」です。大量のおでんで、かなり残るのではないかと思ったのですが、お味は好評で、ほとんど残りませんでした。
食事に先だって、礼拝の中で旧約聖書・ヨブ記17章6~16節を読みました。牧師からは「望みは塵の上に」というタイトルでお話をしました。いつもの礼拝は、前半が子供礼拝、後半が子供たちが抜けての二部構成ですが、「主の食卓礼拝」は最後まで大人も子供も一緒の礼拝です。ですから、牧師からのお話もいつもよりも短いお話を心掛けています。
(以下、お話の要約)
家族を失い、病に見舞われ、ヨブに寄り添おうとはしない友人たちに囲まれて、ヨブは希望を失い、とても苦しんでいます。ヨブはこう言います。「どこに希望があるのか。誰が希望をみせてくれるのか。希望は全部、死の世界に落ちてしまった。希望は塵の上に横たわっている」。人間は死ぬと塵や土になります。もうそんな塵の上にしか希望はないとヨブは言うんです。そうかも知れないなぁと僕は思います。塵から生まれて、塵に帰っていく、そんな人間の希望は、塵の上で生み出されるいろんな物、塵の上で生きる人と人との間にあるいろんな思いによってしか、作ることができないんです。
聖書は、塵や土から人間が作られたと言っています(旧約聖書・創世記2章)。でも人間は塵や土から作られても、それだけでは生きて行けません。わたしたちは毎日、何かを食べて飲んで、それで体中の細胞が新しくされて、古くなったものを排泄物や汗として体の外へ出しています。それと同じように、わたしたちの前からは去ってしまった、大切な人の想い出も、わたしたちを新しくしてくれるものだと思います。大切な人のことを思い出すときに、わたしたちは新しくされて、そして古くなったものを涙として体の外に出すのかも知れません。
イエスは、十字架につけられて死ぬ前に、弟子たちと一緒に食事をしました。そして、一緒に食べることによって、イエスのことを想い出しなさいと言いました。今日はこれから、みんなで「おでん」を食べます。一緒に「おでん」を食べながら、イエス様と、そして自分の大切な人のことを想い出して、わたしたちの体と心を新しくしたいと思います。わたしたちが死んで、塵になって行く、その瞬間まで、絶えず新しくされる者として共に生きて行きましょう。
(以上、お話の要約)
礼拝後は、葬儀社の方をお招きして、キリスト教の葬儀や最近の埋葬方法などについてのレクチャーを受けました。興味深いお話を伺えました。講師のAさんに感謝。
次週の主日礼拝は2月2日(日)午前10:30~11:45。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録16章25~34節です。牧師のお話のタイトルは「揺さぶられる土台」。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)