大阪教区中部地区の交換講壇でした。簡単に言えば今日一日だけの牧師の交換で、山田牧師が扇町教会に行き、淡路教会では扇町教会の山下壮起(そうき)牧師に説教していただきました。
子供の礼拝では、新約聖書・ヨハネによる福音書3章1~4節を読んで、教会員のOさんから「うまれかわること」という題で、「たとえ失敗しても、次にがんばればいい」ということをお話しいただきました。
山下牧師からは、「神様の答え」と題した、新約聖書・マルコによる福音書4章10~12節のイエスがなぜなぜたとえばなしをするかを説明した部分をテーマとしてのお話しでしたが、その本題の前に、次のように淡路教会とつながりがあることを話されました。
・当教会の前任の館山牧師が扇町教会で代務者として務められている
・保育園時代、その館山牧師のお連れ合いのFさんがお世話になった先生である
・山田牧師が当教会赴任前の一年間、同志社神学研究科で一緒に学んだ
(以下、お話の要約)
たとえ話は、それが共通の経験をもっている内容であれば内容の理解を助けますが、そうでないと違う理解を生んで、かえって話をわかりにくいものにしてしまいます。
聖書の箇所は、イエス様が多くの群衆に対してたとえ話をしたあと、群衆は帰り、少人数になったところで弟子がたとえについて尋ね、それにイエス様が答えているところです。
そのまま帰った群衆はたとえの意味が分からないままだったかもしれませんが、イエス様が言われた答えも理解が難しい内容です。
しかし、イエスの語られたことが分からなくても、「神様の “とき” を待つ」ことが大事だと思います。そのたとえに秘められた「神様の答え」がわかるときがくるはずです。
「自分の “とき”」で考えて答えをすぐに出そうとすると、合理性等に捉われて自分に都合の良い答えとしたり、イエス様の言われた「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できない」ものになったりするかもしれません。
「神様の “とき” を待つ」ということは、神様が蒔かれた種、語られた言葉を私たちの心の土壌で育む時間を与えられているのです。
神様の答え、みこころと言えますが、それは一つの答えだけでなく、とても豊かなものです。神様から与えられた “とき” を積極的に待ち続けられることで、神様が蒔かれた種を育てる土壌、私たちを見直すことで多くが実ります。
こうして与えられる神様の答えの豊かさに生きる喜びと希望を見出しつつその時を待ちたいと思います。
(以上、お話の要約)
礼拝後には茶話会の時を持ち、歓談の時を持ちました。
報告:枝本順三郎(役員)