降誕節第8主日でした。画像はメンバーのOさんが子供の礼拝で読んでくださった絵本『うまれてきてくれて ありがとう』の画像です。新約聖書・ルカによる福音書2章1~7節を読んで、Oさんが保育士として最初に担当した方(当時は乳児)が最近出産されたことの喜びを交えてお話をしてくださいました。イエスが、「神の子」としてではなくて、「人の子」(つまり人間)としてこの世にお生まれになったというお話が印象的でした。
礼拝の中で新約聖書・使徒言行録16章35~40節を読みました。牧師からは「『自由』からの解放」というタイトルでお話をしました。
(以下、お話の要約)
使徒パウロはフィリピという町で何度か「解放」の出来事を経験してきました。リディアという女性は「心を開かれて」クリスチャンとなりました。占いの霊に憑りつかれていた女奴隷は、霊と奴隷の身から解放されました。そのことが原因でパウロは投獄されてしまいますが、大地震によって囚われていた牢からパウロ自身も解放されます。また牢の看守は、囚人が逃亡をはかったことで責任を感じ自殺しようとしますが、パウロたちが逃亡しなかったことで、ローマ帝国による束縛から解放されて、自殺を思いとどまってクリスチャンとなりました。でもパウロは、いざ正式に釈放されることになると、急に自分がローマの市民権を持っていると言い出しています。投獄前ならまだ分かりますが、どうして今頃になって、ローマの市民権を持ち出すんでしょうか。パウロは不安に襲われたんだと思います。神の前でだけ与えられる「自由」を知った時、人は恐れを感じて、国籍や所属や身分にすがりたくなるのかも知れません。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ八章三二節)というイエスの言葉が聖書に記されています。ユダヤ人であることや、律法を守って律法に定められている「罪」を犯さないことが、人を自由にさせるのではなくて、ただ神に属していることだけが人を自由にするんだということです。でも、神にのみ属している、神の前でたった一人のかけがえのない「わたし」であるということがもたらす自由は、「わたし」たちを不安にもするんだと思います。「わたし」たちも、やっぱり、身分や、血筋や、国籍などに頼りたくなるんです。あるいは、お金や名誉や権威が、「わたし」の身分を保証して「わたし」を自由にしてくれると思いたいんです。でも、イエスの言葉はわたしたちをそんな恐れからも解き放ちます。「わたし」たち一人一人が、ただ神にだけ属している、神の子だということは、「わたし」をすべてのことから解放して自由を与えてくれるんです。神の前では、ユダヤ人も、ギリシャ人もありません。学生証も、IDカードも、免許証も、パスポートも必要ありません。何かの集団に属していることも、いないことも、男であることも、女であることも、大人であることも、子供であることも、性別も、犯罪者であることも、ないことも、裏切者であることも、ないことも、まったく関係ありません。何かに縛られたり、誰かを縛ったり、誰かを犠牲にして得られる富や地位や権力によって得られる「自由」は必要ありません。それらを失うことを恐れる必要もありません。「わたし」たちは神の前でこそ、たった一人のかけがえない「わたし」として「自由」です。
(以上、お話の要約)
礼拝後は、「教会員」ではない方についての葬儀・埋葬について教会全体での協議会を行いました。また協議会後は定例の役員会でした。皆様のご協力に感謝します。
次週2月23日(日)は降誕節第9主日(教会暦)。礼拝は午前10:30~11:45です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記18章1~3節、お話のタイトルは「なぜ憎しみ合うのか」です。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)