降誕節第9主日でした。画像はメンバーのMさんが献げてくださったお花です。子供の礼拝の中では、旧約聖書・創世記16章13~14節を読んで、牧師から「どれいのこども」というタイトルでお話をしました。「信仰の父」とも言われるアブラハム(ここではアブラム)と連れ合いのサライ、そしてサライの奴隷ハガル、それぞれの思惑の中で母の胎に宿るイシュマエルですが、神の約束を信じない大人たちに翻弄されながらも、神に守られてこの世界に生まれてきます。もっとも小さい者に目を留める神ヤハウェの姿を伝えたいと思いました。
礼拝の中で旧約聖書・ヨブ記18章1~3節を読みました。牧師からは「なぜ憎しみ合うのか」というタイトルでお話をしました。
(以下、お話の要約)
ヨブ記の半分以上が、苦しむヨブとヨブを囲む友人たちとの対論です。ヨブ記の中で、ヨブは苦しみを味わいながら、次第に神を呪い始め、とうとう神を「敵」とまで呼ぶようになっていますが、友人たちの姿勢はほとんど変化しません。彼らはヨブに非があると決めつけて、それを改め、神に従う姿勢を見せれば、いつかはきっと苦しみから解放されるに違いないということを延々と繰り返しています。両者のこのかみ合わない対論を読んでいて、僕はいささかうんざりして来ています。でもこのうんざり感は、実はヨブ記の著者のうんざり感(失望)を指し示すものと考えるべきものだと思います。一人の人間がありのままに自分らしく、外から押し付けられる「こうあるべき」ではなくて、自分の経験に基づいて生きようとすることが、現実の社会の中でいかに大変なことなのかということを示すうんざり感だと思うんです。
ところで、うんざりと言えば、そもそも旧約聖書そのものはどうでしょう。長いし、イエスは出てこないし、なんだか残酷なお話もたくさんあります。こんな書物がキリスト教にとって必要なものなんでしょうか。新約聖書だけじゃダメなんでしょうか。イエスは旧約聖書の内容(ユダヤ教の信仰内容)をよく知っていました。イエスの当時のユダヤ教は、律法を守ることが第一で、何らかの理由でそれができない人は「罪人」とされ、物理的に、あるいは精神的に社会の外に追いやられていました。でもイエスはそんなユダヤ教の教えには従わず、「罪人」に寄り添いました。ですから、その行いは旧約聖書の中の律法を乗り越えようとするものだったわけです。そういうわけで、イエスの行いの意味を知るためには、イエスが何を乗り越えたのかということを、やっぱり旧約聖書から知る必要があります。また、旧約聖書は律法だけの書物ではありません。その中には、イエスが受け継いだものもあると思います。律法のような厳格な決まりごとではなくて、世界の現実の中で一人の人間としてありのままに自分らしく生きようとする者の物語や歌も旧約聖書には記されています。ですから、イエスが何を受け継いで何をもたらしたのかということを知るために、やっぱり旧約聖書はあった方がよいと思います。
イエスは、旧約聖書の宗教から、人が神の前で、自分らしく、ありのままに生きることの大切さを受け継いたんだと思います。律法が定める、汚れや罪に囚われることなく、イエスの目の前にいる人が、自分らしく、ありのままに生きることの大切さを大事にしたんです。それは、ヨブ記に記されたヨブが、友人たちから繰り返し、強い力で押し付けられる、「こうでなければならない」に対して、たった一人で抗い続ける、その流れの上にあるものです。ヨブ記に記された、ヨブの苦しみ、著者のうんざり感を味わいながら、その中にイエスが大切にしたものを一緒に見出して行きたいと思います。
(以上、お話の要約)
礼拝後は、「ナザレのイエス」というドラマのDVDを鑑賞しました。1977年に英伊合作で製作されたドラマです。とても長いので、30分くらいずつ月に一度くらいのペースで鑑賞しています。今回は、イエスが宣教を始めた頃の話を観ました。誰も触れようとしない病人の手をイエスが握って助け起こすシーンが心に残りました。
次週3月2日(日)は降誕節第10主日(教会暦)。礼拝は午前10:30~11:45です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録17章1~9節、お話のタイトルは「聖書と信仰」です。どなたでもぜひご参加ください。
なおその翌週の3月9日(日)は主の食卓礼拝です。礼拝の中で一緒に食卓を囲みます。今回はカレーライスを作る予定です。こちらも、どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)