2014年3月2日主日礼拝報告

献げられたお花

献げられたお花

降誕節第10主日でした。画像はメンバーのMさんが献げてくださったお花です。子供の礼拝の中では、新約聖書・コリントの信徒への手紙一1章18~25節を読んで、Iさんが「イエスさまにであえてよかった」というタイトルでお話をしてくださいました。

礼拝の中で新約聖書・使徒言行録17章1~9節を読みました。牧師からは「聖書と信仰」というタイトルでお話をしました。

(以下、お話の要約)

使徒パウロは、ギリシャ・ローマ世界の町々を回る「宣教旅行」をした人ですが、町を訪れた時には必ずユダヤ教の会堂へ行って、そこでイエスの事を宣べ伝えました。その際パウロは、ユダヤ教の聖書(今でいう旧約聖書)を引いて、イエスのことを論証しました。つまり、旧約聖書のユダヤ教内での権威を利用して、イエスを権威づけようとしたわけです。そしてそのことは効果的なことでもありました。この聖書箇所でもパウロの言葉に説得される人々いたことが語られています。

ところがイエスは、パウロとは反対にその旧約聖書を乗り越えようとする人でした。イエスは聖書の「律法」よりも人間を大事にしました。イエスにとっては、目の前で苦しんでいる人、「律法」によって「罪人」とされた、人間扱いされていない人の方が大切だったのです。けれども、聖書の「律法」を大切にする人々は、「罪の赦し」(「罪」からの解放)を告げるイエスのことを「神への冒涜」だと批判して、ついにはイエスを十字架の死へ追いやることになるのです。

パウロのしていることと、イエスのしたことの間には矛盾があります。イエスは、当時絶対的な権威を持っていた聖書の「律法」を乗り越えて、それに捉われることのない生を語りましたが、パウロは依然、聖書の権威を利用して宣教活動をする他なかったんです。

聖書と言うのは、信仰の絶対的な基準や権威のようなものではないと思います。もしそうだとしたら、その基準や権威の方が人間よりも大事なものに、どうしてもなって行ってしまいます。そして、その基準や権威が人を〇と×に分けて行くことになるんです。そうなると、イエスが大事にした一人の人間の大切さは、どうしても忘れられて行ってしまいます。

聖書には確かに人を裁く言葉もあって、それらを絶対的な基準にしたり、権威を持たせたりすると、人を裁き、殺して行くものにもなります。でも聖書は、人を〇と×にわけるための書物ではなくて、人を生かすための書物だろうと僕は思っています。聖書には人を生かすための言葉もたくさんあるんです。その言葉を聴くとき、その言葉は人を殺すものではなくて、生かすものとして「わたし」たちに語りかけてくると思うんです。イエスの事を、いろんな方向から語る書物として聖書を大切にして行きたいと僕は思っています。

(以上、お話の要約)

教会の暦の上では、水曜日からレント(受難節)に入りました。次週3月9日(日)は復活前第6主日(教会暦)。礼拝は午前10:30~11:45です。また、この日は主の食卓礼拝です。礼拝の中で、一緒に食卓(カレーライス)を囲みましょう。聖書箇所は新約聖書・ヨブ記18章4~14節、お話のタイトルは「人を呪わば…」です。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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