教会の暦では復活前第6主日でした。大阪淡路教会では主の食卓礼拝を献げました。聖書によると、イエス・キリストは何度も、様々な人々と食卓を共にしました。主の食卓礼拝は、そのことを記念して、礼拝の中で実際に食卓を囲む礼拝です。画像は今回のメニュー、カレー(ライス)です。他に「小林みかん」も献げていただきました。
礼拝の中で旧約聖書・ヨブ記18章4~14節を読みました。牧師からは「人を呪わば…」というタイトルでお話をしました(が、またしても話の内容はタイトルから離れてしまいました)。
(以下、お話の要約)
僕は小学生の時、給食が大の苦手でした。特にコッペパンを食べるのが苦痛で、食べ終わるのはいつも最後くらい、先生に急かされるのがとてもいやでした。ところが、以前NHKの「プロフェッショナル」という番組で取り上げられていた、菊池省三という小学校の教師は、僕の同じようにパンが苦手で子供の前で給食のパンを残していました。この教師は学級崩壊を立て直す教師として取り上げられていたのですが、子供の前でもパンを残して自分の弱さを隠さずに見せる、その姿勢が子供の信頼を得ることにつながっているんだと僕は思いました。給食を食べるのが遅い僕を急かしていた先生にも、本当は好き嫌いがあっただろうし、食事はゆっくり食べた方がよいことを知っていたはずです。それが真実に違いありません。
苦しむヨブを悪人と決めつけ、悔い改めを迫るしかできない友人たちにとって、苦難が罪の結果であるということは当たり前のことでした。そのことを疑うこともありません。でもそれは真実ではありません。ヨブはそれを経験で知っていますが、友人たちは言葉による建前を当たり前のことと信じて疑わず、ヨブを責め続けるのです。
イエスが様々な人々と囲んだ食卓は、弱さだけでつながっている食卓だったと思います。イエスは、最期は十字架の上で死ぬほかなかった弱い人でした。イエスが食卓に招いた人々は、それぞれ人から邪魔者扱いされて、弱くされていた人々でした。イエスが「最後の晩餐」に招いた人々の中には、やがてイエスを売り渡すユダという弟子もいました。ユダは金に目がくらんでイエスを売ります。それも人の弱さです。
弱さでつながる主の食卓は、学校給食とはずいぶん違います。給食は決まったメンバーでしか食べません。決まった時間の中で、全部を食べることが前提とされます。主の食卓は、子供でも大人でも、若い人も歳を重ねた人も、男でも女でも、日本人でも外国人でも一緒に食べます。食べてもいいし、食べなくてもいい。弱さの極みを知った主イエスを中心に、あらゆる弱さによってつながる人が囲む食卓です。弱さを隠すことなく、自由に食卓を囲みましょう(人は食べられるものを自由に食べる、それが真実でしょう)。
(以上、お話の要約)
教会の暦の上では、受難節を過ごしています。4月20日(日)のイースター(復活祭)まで続きます。次週3月16日(日)は復活前第5主日(教会暦)。礼拝は午前10:30~11:45です。礼拝後には、会堂清掃と定例役員会があります。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録17章10~15節、お話のタイトルは「そのとおりかどうか」です。どなたでもぜひご参加ください。
報告:山田有信(牧師)