2014年3月23日主日礼拝報告

絵本『あるはれたひに』

絵本『あるはれたひに』

教会の暦では復活前第4主日でした。子供の礼拝では、旧約聖書・イザヤ書11章6~10節を読んで、メンバーのIさんが「あるはれたひに」という絵本を朗読してくださいました。共に生きるということがどのようなことなのか、考えさせられます。

礼拝の中で旧約聖書・ヨブ記18章15~21節を読みました。牧師からは「記憶から消え去っても」というタイトルでお話をしました。

(以下、お話の要約)

教会と関係の深い、社会福祉法人路交館が参加しているセミナーに参加ました。今回のテーマは「『強度行動障害』と呼ばれる人々と共に地域で生きる」というものです。そのセミナーで聴いた、西川勝さんという哲学者のお話を分かち合いたいと思います。

西川勝『ためらいの看護』(手に入りにくいようです)

西川勝『ためらいの看護』(手に入りにくいようです)

西川さんは、お話の中で自著『ためらいの看護』から一つのエッセイを朗読しました。西川さんが精神病院の病棟で働いていたときの経験を記したものです。それは、ある日西川さんが入院患者さんの一人に暴力をふるったという経験でした。その患者さんはちょっと暴力的ないたずらが好きで、みんなから「暴れん坊将軍」と呼ばれていたそうです。どうしてかと言うと、しょっちゅう、そんないたずらをしながら「暴れん坊将軍」ってちょっと幼い感じの言い方で言っていたからなんです。ただ、いたずらって言っても、悪意は感じられなかったそうです。だから、たぶんその患者さんは結構みんなから好かれていたんじゃないかと思います。ところがある日、西川さんがその患者さんのケアをしている時に、後ろから思い切り股間を蹴られたんだそうです。そしてその瞬間、西川さんは激しい痛みと同時に怒りを感じて、激昂して、その患者さんを殴り倒したんです。その瞬間から、西川さんの記憶は結構飛んでしまって、覚えているのは、その患者さんの泣き声と、顔を守るために覆っているその手だけだということでした。西川さんは、他の職員に羽交い絞めにされて、その場は収まって、結局、謹慎処分ということになったそうです。

その朗読を聴いて、僕は「なんてひどいことをするんだ」と最初は思いました。でも西川さんが伝えたかったのは、人のケアをするということが、いつも暴力や死というものと隣り合わせだと言うことなんじゃないでしょうか(そう直接は言っていなかったけど)。それどころか、人と関わるということそのものが、常に暴力や死とつながっているということだと思います。人と関わるということのほとんどは善意から始められることでしょう。そして、何気ない日常の人とのやりとりが続くことがほとんどです(西川さんもそう言っていました)。でもそのことが、ふいに暴力にかわったり、死につながったりすることがあるんです。それが、ケアの現場にいる人の現実なんだと西川さんは言いたかったんだと僕は思います(「あるはれたひに」のヤギとオオカミの関係にもつながりますね)。

今日の聖書箇所は、苦しむヨブと対論するビルダドという友人の言葉です。ビルダドも最初は善意で、ヨブを訪ねたはずです。でもここではもう明白な脅しになっています。ヨブのように神に逆らう者は、人に家を奪われ、想い出も、名前も消し去られて、この世から追放されると言うんです。こんなビルダドの姿は、「わたし」自身の姿でもあります。ふとしたことから、ビルダドのように人と関わることになってしまうことが誰にでもあるはずです。

では、どのように人と関わればいいんでしょうか。西川勝さんはこんな風に言っていたと思います。自分をさらけ出すしかない。自分の弱さ加減を知って、その弱さの部分をさらけ出して、その弱さの部分で相手と支え合うしかない。何かができる、できない、「わたし」は相手にこんなことをしてあげられる、こんなことができるということで、相手をケアする自分をはかったら、それはどうしても、相手のことも自分と同じように、何かができるのか、できないのかで評価して、できない相手をいつか否定して、傷つけて、ひょっとしたら死なせてしまうことになる。西川さんはそう言っていたと思います。だから、そうじゃなくて、本当は何にもできない自分、究極的には、ただ自分の死に向かって毎日を生きている自分、死んだらいつかは人の記憶から消え去ってしまう自分、そういう弱い自分を認めて、そういう現実の自分と出会って、そういう弱い者同士で支え合って、どうにかこうにか、この世界を共に生きているんだということを知っておく、そういうことなんじゃないかと僕は思っています。

でも、自分の強さを誇ることはできても、自分の弱さを認めることは難しいことです。支えになるのはイエスだけだと思います。西川さんの朗読を思い出しながら、僕は思ったんです。頭に血が上って、カッとして、殴り倒した患者さん、いたずら好きの「暴れん坊将軍」というあだ名の患者さんが、顔を手でかばって、怖くて、怖くて、泣いているのを見た時に、西川さんは十字架のイエスと出会ったんだと思います。西川さんはクリスチャンではないと思います。だから西川さんは違うと言うかも知れません。でも、西川さんはそこでイエスと出会った、そういうことなんだと僕は勝手に思っています。「わたし」たちも、十字架で嘆きの声をあげて、息を引き取った、イエスのあの弱さに支えられて、「わたし」たちは共に支え合って、どうにかこうにか生きて行きます。

(以上、お話の要約〔にしては長い〕)

教会の暦の上では、受難節を過ごしています。4月20日(日)のイースター(復活祭)まで続きます。次週3月30日(日)は復活前第3主日(教会暦)。礼拝は午前10:30~11:45です。聖書箇所は新約聖書・マルコによる福音書1章1~11節、お話のタイトルは「わたしはあなたを喜ぶ」です。今後、第5日曜日にはマルコによる福音書に聴いて行きたいと思います。どなたでもぜひご参加ください。

報告:山田有信(牧師)

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