2014年3月30日主日礼拝報告

ヤハウェ一行とアブラハムとサラ(The Brick Testament から拝借)

ヤハウェ一行とアブラハムとサラ(The Brick Testament から拝借)

教会の暦では復活前第3主日でした。子供の礼拝では、旧約聖書・創世記18章1~15節を読んで、牧師から「なぜサラはわらったのか」というタイトルでお話をしました。神ヤハウェを含む一行とそれを迎えるアブラハムとサラが、時にむきになったり、鼻で笑ってしまったり、あわてたりする、人間味あふれる物語です。神は神殿の奥に鎮座しているんじゃなくて、やっぱり人間と一緒にいるということでしょう。

礼拝の中で新約聖書・マルコによる福音書1章1~11節を読みました。牧師からは「わたしはあなたを喜ぶ」というタイトルでお話をしました。

(以下、お話の要約)

「イエス・キリストの福音の初め」と二節に書かれていますが、マルコにとって「福音」というのは、イエスがどのような人で何をしたのかということだったに違いありません。今を生きるわたしたちが、あの時代あの場所を、生身の一人の人間として生きたイエスに遡るためには、このマルコ福音書が一番重要な文書です。

キリスト教の信仰の原点は、やっぱりイエスという一人の人にあると僕は思います。でもキリスト教には、イエスがこの世を去ってから、作られたものもたくさんあります。聖書もそうです。キリスト教のさまざまな教えもそうです。それらは、確かに役に立つこともあります。でも、やっぱり一番大切なのは、「わたし」たち一人一人が、一人の生身のイエスと出会うということだと思います。聖書そのものや、キリスト教の教えを信じたり、受け入れたりすることが一番重要なのではありません。今を生きる一人の「わたし」が、あの時代あの場所を生きた一人の生身のイエスと出会って、そのイエスが「わたし」にとってかけがえのない大切な存在、慰め、救いなんだと信じること、それが、「信仰」と呼ばれるものなんだろうと僕は思っています。

イエスは何をしたどんな人でしょうか。その一つは、思い込みや偏見にあまりとらわれることなく、人と接することができた人だったということだと僕は思っています。当時は、旧約聖書の「律法」が人をはかる絶対的な基準でした。その「律法」によって汚れた者だとされれば、もう誰もその人に近づこうとはしませんでした。その「律法」の基準で、「罪人」だとされたら、その人は社会の外に追いやられました。そしてもう誰もその人を一人の人間だとは思わなくなってしまっていたんです。それが普通に当たり前に行われていた社会でした。でもその中にあってイエスは違っていました。「律法」に囚われることはありませんでした。「罪人」だろうが、汚れていようが、イエスはその人に近づいて、触れて、食卓を共にしたんです。

「わたし」たちにはもう「律法」そのものは直接関係はありません。でも、やっぱり思い込みや偏見に囚われることはたくさんあると思います。ある人がある見方や基準で名づけられると、その名前から離れることができなくなってしまいます。それはある一つの見方に過ぎません。でもその呼び名が、その人そのものであるかのように、人は思ってしまうんです。実は、この世界の差別の全ては、そうやって生み出されていると思います。

イエスが洗礼を受けた時、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声が聞こえたと一一節に記されています。「わたしの心に適う者」という言葉は、もっと直訳すれば「わたしはあなたを喜ぶ」ということです。ここには、マルコ福音書の著者マルコが、イエスのことを、神に愛され、喜ばれた人だったと考えていたことがうかがえます。「わたしの心に適う者」と言うと、ちょっと上から目線で、神がイエスを何かの基準で、適性があるかないかを判断したみたいな感じですが、そうじゃなくて、神はただイエスを愛し喜んだんだということなんじゃないでしょうか。ここは、それほど神はイエスに近づいて、イエスとひとつになっていたんだという、マルコの証言なんだと思います。

「わたし」たちも、これからのこのマルコ福音書を少しずつ読み進めながら、生身のイエスに近づいて行きたいと思います。人から歪んだ目でしか見られていなかった「罪人」と呼ばれていた人たちを、イエスは、どう見て、どう近づいて行ったのかを知りたいと思います。神はイエスの何を愛し、何を喜んだと、マルコが思ったのか、知って行きたいと思います。そのことはきっと、「あなた」は、目の前の一人の人を、「どんな風に見ているんですか」、「あなた」は、自分のことを「どんな風に見ているんですか」、そう問いかけられることになって行くでしょう。

(以上、お話の要約)

昨日、お墓を掃除して来ました。剪定も終わってすっきり。

昨日、お墓を掃除して来ました。剪定も終わってすっきり。

教会の暦の上では、受難節を過ごしています。4月20日(日)のイースター(復活祭)まで続きます。次週4月6日(日)の礼拝は永眠者記念主日礼拝です。教会に関係する永眠者の方々の(一部の)写真を展示して礼拝をします。永眠者の方々の生と死を想い起して、わたしたちの生活を新たにできればと思います。礼拝は午前10:30~11:45。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録17章22~31節、お話のタイトルは「偶像の中に神はいない」です。どなたでもぜひご参加ください。午後1時からは、服部緑地霊園の教会墓地に移動して、墓前礼拝を献げます。天気に恵まれれば、墓前礼拝後にはお花見をかねた野外食事会の予定です。

報告:山田有信(牧師)

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