大阪淡路教会では春の永眠者記念主日でした。111名の永眠者を心に留めて記念礼拝を献げ、午後には教会墓地(服部霊園)で墓前礼拝を献げました。
第一部の子供の礼拝では、新約聖書・ヨハネによる福音書11章25~26節を読んで、メンバーのOさんが「しんでもいきる」というタイトルでお話をしてくださいました。
第二部の礼拝の中では、新約聖書・マルコによる福音書1章1~11節を読みました。牧師からは「わたしはあなたを喜ぶ」というタイトルでお話をしました。
(以下、牧師のお話の要約)
「認知症」は「自分が自分でなくなっていく病」とも言われます。自分が何をしているのか分からない、長年一緒に生きてきた家族が誰なのか分からない、自分さえ誰なのか分からないという症状があります。けれども「認知症」の方はそれでも、もう誰でもない自分として、誰でもない相手との関係を新しく創って行くそうです。知的な部分を蝕まれても、感情の部分での衰えは大きくはないということです。
使徒パウロは訪れたギリシャの町アテネで多くの偶像(神々の像)を観ます。パウロは、そんな偶像に神が宿るのではなく、人が「探し求め」れば神を見出すことができると言います。また「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」とも言います(27節)。神と人との関係は、「認知症」の方のように、心を動かして、心を震わせて、手探りで、絶えず新しく創って行くものだということではないでしょうか。神は「こうあって欲しい」という思いが込められたものが偶像です。でも神は、「こうあって欲しい」とか、「こうでなければならない」という人の思いの先にではなくて、誰でもない、何者でもない、手探りで探し当てる相手と自分の、心と心のつながりの間に宿っているのだと思います。
小澤勲さんという精神科医が、自分の余命を知らされた後に書いた本の中で、こんなことを言っています。「私は、私がいなくなった世界をまざまざとイメージすることができる。私とつながり、私を考えてくれた人たちが、私をどこかに潜ませて動いてくれている。それはいずれ忘却の彼方に消えていくだろうが、それでもこの宇宙のどこかに私の生の痕跡はある。そう感じ取れるのだ」(『認知症とは何か』108ページ)。「認知」を失うことが人と人との関係を失わせてしまうのではないように、「死」も人と人との関係を損なうことはできないのかも知れません。小澤さんは、「認知症」の方のケアを通して、そのことを実感して行ったようです。
「認知症」が次第に自分・「わたし」を奪っていくように、死は「わたし」を完全に飲み込んでしまいます。でも「わたし」ではなくなった「わたし」も、「わたし」の相手にとっての「あなた」として生き続けるんじゃないでしょうか。死によって「わたし」が失われても、でもそんな「わたし」が、誰かの「あなた」として心と心で結ばれて生き続ける、「わたし」たちはそこに「復活」のイエスを見出すことを許されるんじゃないでしょうか。
(以上、お話の要約)
礼拝後、服部霊園にある教会墓地へ移動して、墓前礼拝を献げました。その後、再び教会へ戻って、食事会をしました。例年は、霊園の中で桜を見ながら一緒に食事をするのですが、今年はけっこう冷えて、雨上がりということもあったので、教会での食事会となりました。皆様のご協力に感謝します。
教会の暦の上では、受難節を過ごしています。4月20日(日)のイースター(復活祭)まで続きます。次週4月13日(日)は「棕櫚の主日」。十字架で死ぬイエスが、直前にエルサレムに入城したことを記念する日です。礼拝は午前10:30~11:45。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記19章1~7節、お話のタイトルは「人を打ち砕く言葉」です。どなたでもぜひご参加ください。礼拝後には、会堂の清掃と定例役員会を予定しています。
報告:山田有信(牧師)