2014年4月20日主日礼拝報告

 

イースター・エッグ(MさんとOさんが用意してくださいました)

イースター・エッグ(MさんとOさんが用意してくださいました)

イースターおめでとうございます。4月20日はイースター(復活祭)の礼拝でした。

礼拝の中では、新約聖書・使徒言行録17章32~34節を読んで、牧師から「透き通るような明るさ」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

(まず、D・ムラースコヴァー作『かえでの葉っぱ』という絵本を読みました。美しかったかえでの葉っぱの一生と銀を探し求める少年の物語です。)美しかった葉っぱは、次第に色を失い、葉肉も失って、最期は枯れて筋だけになってしまいます。一方少年は、追い求めた銀を見つけることはできずに、でも石の中に光る雲母の輝きに美しさを見出します。かえでの葉っぱは、最期に焚火の中で燃え尽きます。そんな葉っぱと再会した少年はその葉っぱの燃える姿を見て何かを満たされます。燃え尽きる葉っぱを少年が見て、そして筋だけになった葉っぱの向こうにある、透き通った明るい何かが少年を照らすんです。この普通の葉っぱの最期と銀を見つけられなかった少年の出会いの中に、復活したイエスが生きて働いていると言ってよいと僕は思います。失意の中にある少年は、一枚の葉っぱが燃え尽きる姿の向こうに透けている明るさを見出して、そして心を満たされます。葉っぱと少年の間に起こっていることを、もし聖書の言葉、キリスト教の言葉で表現するとしたら、十字架で死んだイエスが、今も生きて働いて、この「わたし」を生かすための力を与えてくれているという証言になるんです。

D・ムラースコヴァ―『かえでの葉っぱ』

D・ムラースコヴァ―『かえでの葉っぱ』

使徒パウロがギリシャのアテネという町で、イエスが死人の中から蘇ったと証言した時に、アテネの人たちの多くは笑いました。死んだ人が蘇るなんて、確かに馬鹿げたことです。筋だけになった葉っぱが燃える姿が人を力づけるという出来事よりももっと馬鹿げています。

葉っぱが燃える姿が人を力づけるなんて、普通に考えたらあり得ないことです。どうしてそんなことが起こるのか、外側から見ている人にはきっと分からないことだと思います。

パウロはダマスコという町へ行く途中で復活のイエスと出会ったと証言しています。そしてパウロはキリスト者を迫害することを止めて、イエスの復活を証言する者になりました。どうしてそうなのか誰にも分かりません。ただそこでパウロに何事かが起こったんです。

そんなふうに起こる何事かの中に、キリスト者はイエスの姿を見いだすことがあります。そして「イエスが蘇った」という証言になって行くんです。それは、きっとその出来事が、その人にはそうとしか言いようがないほど、その人を支える大きな力を与える出来事だからです。イエスの身体を感じて、血の通ったイエスの身体のぬくもりを感じて、そんなイエスに、この「わたし」が支えられて生かされているんだと本当に感じるような出来事だからです。

(以上、お話の要約)

イースター愛餐会

イースター愛餐会

礼拝後は、献げもの(持ち寄った食べ物や演し物)を分かち合って、イースターを祝いました。

次週は復活節第2主日です。聖書箇所は旧約聖書・ヨブ記19章8~12節、牧師からのお話のタイトルは「我が敵は神」。礼拝後、2014年度定期教会総会を行います。

報告:山田有信(牧師)

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