2014年4月27日主日礼拝報告

教会の暦では復活節第2主日でした。

ガース・ウイリアムス『しろいうさぎとくろいうさぎ』

ガース・ウイリアムス『しろいうさぎとくろいうさぎ』

第1部、子供の礼拝の中では、新約聖書・マタイによる福音書7章7~8節を読んで、メンバーのKさんが、「ねがいごと」というタイトルでお話をしてくださいました。お話の中でKさんは「しろいうさぎとくろいうさぎ」という絵本を読んで、願いを持ち続けることの大切さを伝えてくださいました。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記19章8~12節を読んで、牧師から「我が敵は神」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

聖書の神は、いつも人間の味方という訳ではありません。まず、悪を罰する神の姿が聖書の中にはあります(ノアの洪水物語など)。そして、旧約聖書・ヨブ記に記されているヨブや、イエスのように罪のない者を苦しめる神の姿です。ヨブは自分が神に背くようなことはしていないと信じているのに苦難に遭いますし、イエスは「神の国」にふさわしい世界を目指しているだけなのに十字架で処刑されてしまいます。ヨブもイエスも、自分が神に見捨てられたと考えました。

人間に善い行いを求め、悪を罰する神の姿、そして善悪にかかわらず人を見捨てる神の姿を見ていると、神という存在がどのようなものなのか分からなくなってきます。善を勧め、悪を罰する神は分かり易い神ですが、現実には合いません。ヨブの時代にも、イエスの時代にも苦しむ善人と栄える悪人がいましたし、現代もそれは同じです。では、善悪にかかわらず、人を見捨てる神というのはどうでしょう。それは本当に神なんでしょうか。

福島や沖縄などなど、人の善悪にかかわらず苦しみ続けている人々が、わたしたちの国にも大勢います。このような現実を、わたしたちはどう考えればよいのでしょうか。神とはいったい何者なのでしょうか。祈れば解決するということではないでしょう。神の裁きなのだというのも違うでしょう。

ヨブはやがて友人たちとの議論を終え、神に向かってこう言います。「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を/わたしはしかと肩に担い/冠のようにして頭に結び付けよう。わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し/君主のように彼と対決しよう」(31章35~37節)。これは、自分を罪に定めようとする人の訴えをすべて受けとめて、その現実に立ち向かおうとするヨブの決意を示す言葉だと思います。神さえ敵に回したヨブですが、それでも一人の人間として人は生きて行くのだと言っているような気がします。

時に人を裁き、時に人に幸福感を与え、時に人の敵になりさえする。それが聖書の示している神です。神を顧みない者に富を与え、神にすがる者に災いをなし、神に問いかける者に沈黙する。それがヨブやイエスが向き合った神です。「わたし」たちは一人一人が自分自身でそんな神と向き合って行く他ないんじゃないでしょうか。そんな神と向き合って、問いかけたり、責めたり、祈ったりしながら、やがて一つとなって、幻想ではない現実のこの世界を共に生きるためのかけがえない相手になる、それが聖書が証言している神ではないでしょうか。

(以上、お話の要約)

礼拝後は、2014年度の定期教会総会を行いました。皆様ありがとうございました。

次週は復活節第3主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録18章1~11節、牧師からのお話のタイトルは「わたしがあなたと共にいる」。礼拝後、会堂内の大きなゴミの整理をします。

報告:山田有信(牧師)

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