2014年5月11日主日礼拝報告

KさんとOさんが献げてくださったお花

KさんとOさんが献げてくださったお花

教会の暦では復活節第4主日でした。

第1部、子供の礼拝の中では、旧約聖書・ヨブ記14章1~3節を読み、メンバーのOさんが「どんなときも」というタイトルでお話をしてくださいました。最近、槙原敬之さんのコンサートへ行かれたとか。「どんなときも、どんなときも、迷い探し続ける日々が、答えになること、僕は知ってるから」(槙原敬之「どんなときも」から)。確かにその通りです。答えよりも大切なものがあります。すぐれた歌詞だと思います。

第2部の礼拝では、旧約聖書・ヨブ記19章13~19節を読んで、牧師から「嫌われてひとり」というタイトルでお話をしました。

(以下、牧師のお話の要約)

「仲良きことは美しき哉」(武者小路実篤)。仲の良いことが好ましいことだと考えられています。確かにその通りでしょう。でも、人と人が仲良くなって友達を作ることが良いことだということになると、そのことに苦しむ人も出てきます。本当は仲が良くもないのに友達にならなくてはいけないような雰囲気があって、それができないとダメなうな気になってしまうのです。幼稚園でも保育園でも、学校・職場・入院中の病院、高齢者向けのサービスの場などなど、あらゆる集団の中で「仲良きこと」が求められ、和を乱さないことが求められます。そしてその雰囲気に苦しむ人も多くいるのです。

ヨブという男はすでに神と敵対関係にあります。でもそれでもヨブは一人そのことに立ち向かおうとしていました。ところがさらなる苦悩をヨブは吐露しています。それは人との関係が断たれているということです。神との関係がこじれるよりも、人との関係が断たれて孤独を味わうことの方が耐え難いことかも知れません。妻も兄弟も親族も友人もヨブから離れて行ったと言います。かつてヨブが手厚く保護した外国人もヨブをよそ者と見るようになったと言います。こんなことに人は耐えられるんでしょうか。

社会学者の天田城介さんが、認知症の方の「問題行動」についてこんなことを言っています。認知症の方は周りの人を困らせるような、いわゆる「問題行動」を取ることがありますが、それは「問題行動」と見るべきものではなくて、その人がその人であるための行動なんだそうです。認知症に侵されることによって、波風が立たぬように周りに合わせて振る舞うことから人は初めて解放されて、自分の存在を賭けて本心で必死に闘い始めるんだと言うんですね。だから、「問題行動」を医学によって説明したり、防ごうとしたりすることよりも、その人がどういう生活状況の中で、どうしてそういう行動を取るのか、そのことを知って、理解する、そういう対処の方が大切だと言うのです(小沢勲編『ケアって何だろう』から)。

これは認知症に限ったことではないと僕は思います。人は関係を断たれて孤独の中に置かれたときに初めて、自分自身を賭けてホンネで語りだすのではないでしょうか。苦しみは人には通じません。本人にしか分かりません。でも人との関係を断たれて孤独になった時、人はやっと気遣いや集団の和から解放されて、自分に素直に、自分のために語ることができるようになるのです。

ヨブは今そういう状況にあるのだと思います。ヨブを襲った厳しい苦難と孤独が、ヨブのホンネを語らせているのです。神を敵とし、人との関係を断たれたヨブは、人がたった一人で相手とホンネでぶつかり合って、関係を新たに創り出すことの大切さを閉めてしてくれているんだと思います。「友なき者の友」となったあのイエスもまたそうです。孤独だけが示すことができる、前提なしの、ゼロから築く、人と人との間の希望をイエスは「わたし」に語っているのではないでしょうか。「君は君 我は我なり されど仲良き」(武者小路実篤)の示す「仲良き」ことを目指しましょう。

(以上、お話の要約)

次週は復活節第5主日です。聖書箇所は新約聖書・使徒言行録18章12~17節、牧師からのお話のタイトルは「そんなことのために」。礼拝後に讃美歌練習を少し、その後は会堂清掃を行って、清掃後には定例役員会を予定しています。

報告:山田有信(牧師)

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